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MR10 天地真理とピンク・レディー


 天地真理さんは、1970年代前半(昭和40年代後半)、絶頂の人気を誇る国民的スーパーアイドルでしたが、1970年代後半(昭和50年代前半)の国民的スーパーアイドルはやはりピンク・レディーのお二人でしょう。
 この二組には、ライバルという側面よりも、高度成長期の日本の過激なアイドル市場で、個人の自由と睡眠時間を犠牲にして奮闘した美しき女性という共通点があります。何故、歌の上手なフォーク歌手がアイドルソングを歌い続け、分刻みに雑誌の取材やテレビ番組に出演しなければならなかったのか。何故、ハーモニーも得意なデュオが、宇宙人や野球選手の振り付けで歌い続けたのか。たとえレコード大賞などの輝かしい受賞をしても、やはり、「日本国」そのものが、極めて、元気なモーレツ日本会社だったからか。決して、次の世代の多くの若き女性や金融・不動産会社がバブルで踊り狂うために、彼らはハードな数年を駆け抜けたわけではないのでしょうが・・・・

 次にご紹介するのは、70~80年代のアイドル・歌謡曲・テレビ・映画・漫画など懐かしいものが大好きとの、土曜野午後太(どようの ごごた)さんのブログからです。楽しい文章で、良くまとまっていますね。公開ありがとうございます。

ブログアドレス
http://komawaridaichan.blog.fc2.com/blog-entry-77.html
土曜野午後太さん原作「天地真理とピンク・レディー」

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2013.07.10 Wed
『天地真理とピンク・レディー』

 天地真理さんとピンク・レディーといえば、それぞれ70年代前半・後半の国民的スーパーアイドルですね。結構共通点も多いです。
  ・「ブーム」と呼ばれるほどの凄い人気
  ・2曲目でオリコン1位になり、当時の連続1位の新記録を樹立
  ・キャラクターグッズがたくさん発売される
  ・3年目で人気は急降下、マスコミから派手に叩かれる
などなど。
 今回は、この2組の国民的アイドルの関係について書いてみようと思います。

       ペッパー警部
          【デビュー曲「ペッパー警部」のシングルジャケット】
   
(チャチャ1)若々しいミニスカートとコミカルな足の動き、パワフルな歌声。まぶしい衝撃でした。お二人の勢いは滝を登る元気な鯉のようで、にわかに登り龍となり次々とメガヒットを連発しました。日本の警察もインターポールの銭〇警部も、邪魔は出来ませぬ。ホント、ホント。恋する夏の日の天地真理さんも真っ青でした。(編者)

  3120volvo03さん ピンクレディーde渚のシンドバット

 天地真理さんのデビューが1971(S46)年10月1日、ピンク・レディーのデビューが1976(S51)年8月25日で、ピンク・レディーが5年ほど後輩になります。
天地真理さんがリタイア(チャチャ2)する直前に、ほぼ入れ替わるようにピンク・レディーが登場したわけですね。

(チャチャ2)天地真理さんは、「私は天地真理」コンサートが1976年4月17日に行われ、最後のオリジナルアルバム「童話作家」が1976年12月21日のリリースでした。ちなみに、デビューから連続的に発表されたシングル曲として、1976年12月5日発売の「夢ほのぼの」を世に出し、1977年1月23日から、体の変調を訴え、長期の休業をしました。したがって、正確にはリタイアではなく、「人気絶頂期アイドル」の入れ替え、スター選手交替(こうたい)の意を表現されたほうが良いかも。(編者)

その後、1979(S54)年の暮れに、今度はピンク・レディーがアメリカへ旅立ってしばらく日本を留守にすることになる直前に、天地真理さんが「愛・つづれ織り」で復帰。
 この2組には、同時に存在できないという運命があったのでしょうか(笑)。
 活動期間が被ってる時期もあるので、一度くらいはTVで共演なんてこともあったのでしょうかね?私は見たことも聞いたこともないのですが。
 以前にも書きましたが、私は天地真理さんの全盛期の記憶は本当におぼろげにしかありません。
 私の天地真理さんに関しての知識というのは、大人になってから本を読んだりTVでの懐かし話を見たりして得たものがほとんどです。
 なので、リアルタイムのこまごまとした様子は全くわからないのですが、ネットやら当時の事を書いた文献やらを読むと、当時の天地真理さんは、週刊誌などにあることないこと書きたてられてマスコミからかなりのバッシングに遭っていたとか。

 ピンク・レディーも、1979(S54)年以降人気が急降下してからは、例えば学校でも「ピンク・レディーのファンだ」と言うとバカにされてしまうような雰囲気があり、世間やマスコミの手のひら返し・梯子外しというものを目の当たりにして、1981(S56)年の解散までピンク・レディーファンの私としてはとてもつらい思いをしました。

 リアルタイムで天地真理さんのファンだった皆さんも、同じような思いをされたのかなと、勝手に想像しているのですが、そんなことも、私が天地真理さんに共感する理由のひとつだと思います。

 天地真理さんとピンク・レディーの共演があったかどうかは定かではないのですが、ピンク・レディーのデビュー前にこの2組にはちょっとした接点がありまして。

 ピンク・レディーは、高校3年生の時に「スター誕生」を受けて合格しデビューとなるわけですが、その3年前にミーちゃんの方は一人で「スター誕生」を受けているんですね。中学3年生の時だということなので、1972(S47)~1973(S48)年の頃ということになります。詳しい日付などはわかりません。
 この時はTV予選までは行けたのですが合格は叶わず、残念ながら決戦大会に進むことはできませんでした。
 この時に歌ったのが、天地真理さんの「虹をわたって」だったそうです。
 以前ミーちゃんがインタビューで答えていましたし、「ピンク・レディーのすべて」というビデオの中でも、一人でスタ誕を受けた時の履歴書(?)というか応募用紙が紹介されているのですが、よく見るとそこに「虹をわたって」と書かれています。

 それから、ピンク・レディーの二人は「スター誕生」を受ける前に、やはり二人で他局の「君こそスターだ!」の方を受けて落ちているということは結構有名な話だと思うのですが、この時の「君こそスターだ!」に天地真理さんがゲスト出演していたそうです。ケイちゃんが9年前に出した本の中に書かれていました。
 70年代前半のスーパーアイドルと後半のスーパーアイドルがすれ違った瞬間ですね。

 まあ、だからなんだと言われるかもしれませんが(笑)、ちょっとしたトリビアということで。
「そんなこと知ってるよ」という方も多いと思いますが、一般的にはあまり知られていないことだと思うので、ここに記しておきたいと思います。
(以上、原作に一部勝手ながら注釈しました。すみません。)

テーマ : 音楽のある生活
ジャンル : 音楽

MR23 Miss HARUKO OBOKATA,Don't Cry!


 男性ならずとも、若き女性が一人、突然にブレイクするのは、華が咲く瞬間であるとともに、孤独な葛藤が生じることも意味するようです。弱冠30才、博士号を取得し2,3年の若者が有名な国際科学雑誌にグループ筆頭で論文を書くこと自体がかなりハードルが高いことに加え、研究対象が、がん治療などにも貢献する世界が期待する多機能性細胞(STAP細胞)。しかも、当事者の小保方晴子さんが、国民的スーパーアイドル天地真理さんも能年玲奈ちゃんも真っ青な、知的で真摯で、明るくかわいい研究者となると、「かわいいアイドル」大好きのマスメディアと日本国民には大騒ぎが必至です。

    小保方晴子会見ワイド

 学問的な内容や論文の体裁と厳密さなどは、専門家の研究者の皆様におまかせすべきと考えます。ところで、先日の記者会見で二時間余り、凛として、時にはユーモアをもって、ピン(一人)で冷静に回答した姿に、ただものならぬ強い人間性を感じたのは、きっと私だけではないと思います。

 うわさでは、マスメディアは彼女を文化人にして商売しようと企んでいるとの話もあり、商魂たくましいようです。かつて天地真理さんも実力を有望視されたフォーク歌手から化粧ばっちりの着せ替え人形的スーパーアイドルへ転換され、その大きな渦にのみこまれて後年苦悩したことは、ファンならよく知っている歴史事ではないでしょうか。

    小保方さん会見場

      【小保方会見には大勢のマスコミ関係者が出席しました】


 さて、天地真理プレミアムボックス解説書の巻末「エピローグ いつまでも私の想い出に」は、ピン(ひとり)の国民的アイドルとしては、最強、スーパーな活躍をされた天地真理さんに関し、次のような文面で締めくくられています。

 『「歌手という職業は、華やかに見えますが実に孤独な仕事です。ステージに立った以上、もはや誰の助けも受けられません。自分一人がたよりなのです。もっと頑張って自分に力をつけなければ…」

 これは天地真理が全盛期の73年に語った言葉である。一世を風靡した彼女は、この真摯な言葉やひたむきな歌声のままに、生真面目で純粋な女性であった。それは、当時近しい立場にいた人々の話からも分かる。

 例えば、CBS・ソニーおよび渡辺プロの後輩であり、天地真理のコンサートに度々ゲスト出演した太田裕美。彼女は76年当時、特に親しい歌手仲間として天地真理を挙げ「真理さんは年上なんですけれども、とっても子どもっぽいところのある人ですごく正直な人」と評した。
 あるいは、CBS・ソニーのプロデューサーだった酒井政利。彼は天地真理を「天真爛漫で純粋な性格であるがゆえ芸能界に最も翻弄されるタイプ」と分析し、それがマイナスに作用し芸能界の濁流に呑み込まれてしまったと指摘している。

 70年代は、それまで雲の上の存在だったスターがぐんと身近に感じられるようになった時代であった。しかしそれに伴い、芸能人はプライバシーや名誉などないと思えるほどの状況に置かれていた。そんな中、およそ自由というものが存在しないトップアイドルという立場で、夢の世界を表現し続けるためにはどれほどの犠牲が必要だったのだろうか。

 天地真理は誰も成しえなかったことを、驚くほどのスピードで成し遂げた。数々の賞賛と引き替えに、想像を絶する経験や苦悩を味わったに違いない。とりわけ「感性が鋭く強い人」(CBS・ソニーの白川隆三ディレクター談)ならば、そのダメージはなおさらのことだったろう。』

(編者注1)この玉虫色の意味不明な文章は何を意味しているのでしょうか。・・・天地真理さんの絶大な人気とプロダクションおよび関係者各方面への富の集中に対し、あらぬ嘘八百と人権無視の中傷を流し続けたマスメディアと、真理さんの珠玉のアルバムを一切聴かずに、疲労困憊の真理さんがテレビでやっと元気を出して歌ったファルセットをへたくそと決めつけた多くのおろかな一般大衆のことをさしているのでしょうか・・・(この一般大衆には真理さんとほぼ同年齢の私の兄も含まれていました。私はというと「若葉のささやき」を、大層気に入っていてその評価に疑問を持ちつつ、変に納得していた同じトラのあな[自説ゆずらぬ普通の人々]の一員でした。幸いにも一年前から悔い改めております。)
 もちろん、1983年、現時点で最終シングル「私が雪だった日」を歌われてからの、真理さんの紆余曲折の人生をも差しているのは当然ではありますが。

 『渡辺音楽出版の担当ディレクター(現社長)であった中島二千六(にちろく)は、天地真理について「いちばん輝いて見える、そして、みんなが夢みるような女の子を作り上げた、そう思っています」と振り返る。その言葉通り、天地真理はいちばん輝き、日本中が夢にみたスターであった。・・・・・』

 (編者注2)音楽出版社の方針が歌手よりアイドル?全盛期、一曲のレコーディングが、初見でピアノで二回ぐらい弾いてみてすぐ本番?これはアイドルには原則、歌い込んだレコーディングは無用ということでしょうか。上手過ぎちゃ困る?歌手としてかわいいカワイイに作り過ぎかも?歌の実力をのばし、もっと歌唱力をアピールしてほしかった。彼女の「銀座ひとりぼっち」、「告悔」などなど珠玉の名唱は、真に残念ながら知名度低すぎです。われわれファンには、ファンクラブにもSony Musicにも、まだまだやらねばならないことがありますね。

     小保方晴子スケッチ

テーマ : 気になるニュース
ジャンル : ニュース

MH15.1 アグネス・ラム/グラビア・アイドル第1号

 昭和50年(1975年)は、天地真理さんにとっては、5月31日~6月24日、日本劇場でミュージカル「君よ知るや南の国」を主演し、全盛期の歌唱、パフォーマンスを演じる23才でした。
 このころ、今では駆け出しの女性タレントの登竜門の一つとして普通のこととなった、グラビア・アイドルの第1号がハワイからやってきました。確かに、当時の日本女性にはない素晴らしい水着姿を惜しみなく披露してくれました。初代クラリオンガール、真理さんと同じ渡辺プロダクションの所属でした。

 Wikipedia 「アグネス・ラム」

 そうですね、大学生の私には、時々見るテレビと雑誌が主な情報源だったあの時代、アグネス・ラムの写真情報に比べると、真理さんの情報はほとんどなかったと思いますね。


アグネスラム紹介記事

雑誌(写真集?)の紹介の仕方は、真理さんらに似ていますね。

アグネスラムビーナス

まるで「ミロのビーナス」ですね。

上条倫夫さん ALOHA アグネスラム・フラダンス2

MH17.3 天地真理再デビュー 1979年


 1977年1月23日から甲状腺機能障害などを理由に長期休業していた真理さんは、1979年6月7日に復帰会見を行い、10月15日、東京芝・ABCホールで復帰コンサート「天地真理 明日への出発(たびだち)」(主催:渡辺ワークショップ、CBSソニー) を行いました。
 ファンとより近い会場でという真理さんの希望で、400席のホールで開催され、収容数を100名超えるファンが駆けつけました。特別ゲストに森田公一を迎え、演奏は当時太田裕美のバックバンドと淡海悟郎が担当したとのこと。客席には応援に駆け付けた森光子さんがいました。このコンサートは翌日のワイドショー番組や新聞等で大きくとり上げられました。(BL.17)

   ito fumioさん/徹子の部屋 天地真理 1979 

 上の動画は、最近アップされた、真理さんが黒柳徹子さんの有名な番組に出演された際の映像です。Itoさんはこの頃の他の貴重な動画も多数アップされています。ファンともども公開に感謝いたします。 はじめてみるファンにとって、これらの映像での真理さんの再デビューで歓び歌う姿とやさしい表情、感激の涙がうれしいですね。

 他の動画にあるインタビューで、真理さんは、「これからはどのような歌を歌って行きたいですか?」の質問に「バラード」とこたえています。しかし、再デビュー直後のシングルA面の歌(愛・つづれ織り、1979年12月リリース)は、曲名とは少し異なり明るいアイドルの延長線上の歌のように聴こえます。スタッフも大きな方向転換は、冒険過ぎると思ったのでしょうか。今日、ファンの中で評価の高い「初恋のニコラ」は第二弾として、翌年1980年9月に発売されました。長期休養中の真理さんは、毎日レッスンに通っていたとのこと、再デビューから、一気にバラードでもよかったのではないか。
 ファンの皆さんの誤解を覚悟で私見を述べると、レコードが売れる売れないは、歌手の旬や戦略、プロモートに大きく左右されるのでしょうが、真理さんご自身、そしてスタッフの皆さんが、真理さんの歌と人柄に、時代を越えた心の深きに及ぶ影響力に、もっと自信をもっていてほしかったと思います。 というか、近しい人が真理さんの歌声のほんとうの力について、しっかりほめてほしかった。悩める人、疲れた人を癒す不思議な力のことをです。


週刊プレイボーイか27才真理さん


 この写真はある男性週刊誌の記事のようですが、「笑え!といわれても、笑えないこともあるのよ」は、後の夏目雅子ばりの凄味だったのでしょうか。それとも、やっぱりジョーク好きでやさしい真理さんのことだから、「あるのよねぇ~!」だったかも。
 いずれにせよ、「好きな色は、水色」、「好きな食べ物はカレー」と紋切型の答えを強要されていた真理さんにとって、人間復帰の心意気を表現したものと思われます。

MH10.1 真理さんを発掘した菊地さん 1971


 先日書いた記事のなかでザ・ピーナッツのお二人に挟まれて天地真理さんが椅子に腰かけて歌うシーンの写真、元記事が分からなくて、渡辺プロダクションと真理さんらのお名前をキーワードにネットサーフィンしていたら、真理さんのマネージャーをされた菊池さんの貴重なインタビューを見つけました。この方は、真理さんが公式HPのファン限定ページ、インタビューで語っていた菊地さんではないかと思われます。

 真理さんを、発掘し、当初マネジメントしていた方は、その後もユーミンやKARAのコンサートも震災支援コンサートも手掛ける大物なんですね。真理さんのスタートダッシュに、重要な役割を担った方。われわれファンは、大変感謝しています。
 そうですか、あの五稜郭、有名な夜景、湯の川温泉、立待岬の観光地、イカソーメンのおいしい北海道・函館の御出身とのことです。道南暮らしの経験のある小生としては親しみを感じてしまいます。函館地方の出身といえば、北島三郎、GLAY・・・すいません、余談でした。

  http://www.musicman-net.com/relay/119-4.html#item-1
  ミュージシャンネット 菊地さんインタビュー

 以下に、菊地さんの、天地真理さんの発掘とプロモート、沢田研二さんのタイガーズ解散後のイベントについて語ったページをご紹介します。
※インタビュー [2014年2月13日 / (株)ハンズオン・エンタテインメントにて]

『第119回 菊地 哲榮 氏 (株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長
 今回の「Musicman's RELAY」は、(株)キョードー東京 代表取締役社長 山崎芳人さんからのご紹介で、(株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長 菊地哲榮さんのご登場です。早稲田大学在学中に応援部で活躍した菊地さんは、渡辺プロダクション入社後、ザ・タイガース、沢田研二、木の実ナナ、天地真理など多くのアーティストのマネージメントと新人発掘を担当。独立後、ハンズ(現 ハンズオン・エンタテインメント)代表取締役に就任され、松任谷由実、アリス、ミスチル、ケツメイシ、森山直太朗、KARAなど数多くのコンサートを手掛けられてきました。今回は渡辺プロ時代のお話から、菊地さんの考えるコンサート&エンターテイメントビジネスまで、たっぷり伺いました。』

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     菊地哲榮さん


『4. 新人セクションで天地真理を発掘〜全てはアーティストのため

−−新人セクションってどのような仕事をするんですか?
 菊地:北は北海道、南は九州まで東京音楽学院という学校があって、そこに新人を溜めておくわけです。レッスンをさせてね。私が「この子は音程がフラット気味になるから修正して」「この子はリズム感が悪いから」とか指示して、半年に一回デビューさせてもいいかなという新人を集めて、東京で社長にプレゼンするという役目なんです。そこで出会ったのが天地真理です。まだデビュー前の18か19の頃でした。

−−菊地さんが天地さんを発掘されたんですね。

 菊地:そうですね。可愛い子だなと思って、歌わせてみたら男のファルセットっぽい声を出すんですよね。「特徴的な声だし、これはいいかもしれない」と思いました。普通、新人セクションはデビューするまで担当して、デビューさせる段階になると、担当は制作セクションに移動するんですが、「ずっと天地のマネージャーをやろう」と考えました。

 それでTBSドラマ「時間ですよ」のオーディションを受けさせたんです。オーディションの役は風呂屋のお手伝いさん役で、天地真理には全然合わないなと思いましたが、「まあいいや」と(笑)。するとオーディションに受かっちゃって、しかもそのお手伝いさん役ではなく、天地真理用に新たに役を作ると言うんです。一説には森光子さんが「真理ちゃんのために新たな役を」とおっしゃってくれたらしいんですが、ディレクターの久世光彦さんも「任せておけ」と言ってくれましてね。

−−すごいですね。それだけ天地さんに光るモノがあったんでしょうね。

 菊地:でも、初回の台本を見ると天地真理の役が載っていないんですよ。思わず「あんまりじゃないですか」と久世さんに詰め寄りました(笑)。それでやっと出番と思ったら、2階に上がって、白いギターで「恋はみずいろ」を歌う天地真理、それを下から堺正章が見ているという5秒くらいのシーン(笑)。再度、久世さんに「1時間番組で5秒はないじゃないですか」と言ったら、「あれでいいんだよ。セリフなんて言ったってダメなんだから」「いやセリフくらいくださいよ」とお願いしたら、「ケンちゃーん」という一言だけ(笑)。

−−(笑)。

 菊地:「何なんだよ、あれは」みたいな感じでした(笑)。そのうちマチャアキが天地真理をおぶったり、少しずつ出番が増えてきて、「あの子は誰だ」という投書もどんどん来るようになったんです。それで天地真理の人気が出てきて、昭和46年10月に「水色の恋」でデビュー、あれよあれよとベストテンに入りました。

  時間ですよ104

    時間ですよ 堺正章さんと
    
−−結果的に仕掛けはバッチリだったんですね。

 菊地:バッチリでしたね。当時、渡辺プロは会社を挙げて小柳ルミ子を売ろうとしたわけです。同時期にアイドルは2人も必要ないですし、こっちは全然ダークホース。向こうは大人数に対して、こちらは私とCBSソニーの中曾根さん、渡辺音楽出版の中島さんの3人でやっていました。もちろん全社挙げての小柳ルミ子はドーンと売れるわけですよ。こっちはこっちでギリギリベストテンに入ったくらいで、「これくらいがちょうどいいな」と思っていたんですが、2曲目の「ちいさな恋」で1位になっちゃうんですよね。

−−私はその頃、中学生くらいですからよく覚えていますが、圧倒的に天地真理派の方が多かったですね。同年代はみんな「天地真理が好き」って言っていました。

 菊地:ブリヂストンが天地真理のスポンサーになって「真理ちゃん自転車」とか色んなものを作っていたんですよ。そこからお金を集めて、とにかく色んなイベントをやりました。例えば、応援部で培った人文字で “真理”と書いて、上からヘリコプターでその画を撮るとか、「恋する夏の日」のときは夏のリゾート地のテニスコートを全部借り切って、「テニスコートで真理ちゃんと遊ぼう」というイベントをやったり、天地真理のステータスを上げるのに懸命でした。

        空いっぱい_MariAgeinさん

        気球_MariAgeinさん

  人文字_MariAgeinさん

    出典:(YouTube) Mari Ageinさん 「天地真理/明日への出発」 から

−−天地さんがそれだけ売れると、菊地さんも渡辺プロ内で一目置かれるようになったんじゃないですか?

 菊地:いや、私は変人扱いされていたので。普通は上司が「この仕事をやれ」と言ったらやらなきゃいけないじゃないですか。でも、私はアーティストのためにならないと思ったら、全て拒否していました。例えば、営業部が「○○市のイベント」とか勝手にスケジュール帳に書くじゃないですか。私はそれをすぐ消すんですよ (笑)。

−−えらい強気ですね(笑)。

 菊地:全てはアーティストを守るためです。

−−それはマネージャーの理想型ではあるんでしょうが、会社組織の中では許されなかったんじゃないですか?

 菊地:会社組織には合わないですよ。結局、天地真理と私はケンカ別れするんですが、ケンカ別れをして喜ぶのは会社です。天地真理をやっと思い通りにできるわけですからね。その後、井上堯之バンドと沢田研二のマネージャーを担当するようになって、そこで井上堯之さんと出会うんです。


−−タイガース解散後ですね。

 菊地:そうです。1974年8月4日に内田裕也さんが郡山ワンステップフェスティバルをやるんですよ。いわゆる日本版ウッドストックで、キャロル、クリエイション等、渋めのロックバンドがたくさん出ていて、そこに沢田研二&井上堯之バンドが出たんですよ。その同時期に「ジュリー・ロックンツアー’74」というのをやりました。これが私の記憶にある「初めての大型全国ツアー」なんですよ。それまでは地方の興行師の方達が「この日に来てくれ」と依頼されたスケジュールに従って行くだけだったんですが、「この日からこの時期まで全国ツアーで回るぞ」と連絡し会場を押さえて、沢田がデザインした11tトラックで全国を回るんです。それが今ある全国ツアーの原型ですね。

−−そこは全部自分で会場を仕切るわけですよね。

 菊地:全部仕切ります。主導権はこちらにありますから。それで全国ツアーをやって、ツアー途中に地元の人たちとの野球大会をやったりね。こちらから主体的にエンターテイメントを持って行くという感じでしょうかね。

−−当時はそういう考え方はなかったんですか?

 菊地:あんな大がかりなのはなかったですね。沢田研二のようなビッグアーティストがやるのは初めてだと思います。ツアーは大成功で、みんなキャッキャッ喜んでお祭り騒ぎのようでした。』

 以上、菊池さんのお話しから真理さんについての回顧部分を中心に転載しました。それにしても、当初、渡辺プロの全社挙げての売り込みアイドル歌手は、先にデビューした「小柳ルミ子」さんだったんですね。宝塚仕込みの踊りと歌、そらそうですよね。それが、真理さんが、森光子さんに花があると評価され、「時間ですよ」でにわかに人気が出て、レコードや雑誌やアイドルグッズが売れ、Sony Musicにもナベプロにおいても稼ぎ頭となり、ついに日本中の人々が知っている「国民的スーパーアイドル」となった・・・・。菊地さん方のマネジメント、時代の流れ、そして真理さんの歌唱と愛くるしさとやさしさが、真理ちゃんブームを作ったのです。天地真理さんのイメージやステータスを大切に作り上げたとのこと、スーパーアイドルには、既存の組織運営を超えるスーパーなマネジメント、心意気があったのですね。フムフム、ちょっと納得しました。さらに、久世さんとか語られた記事など誰か紹介してくれたら嬉しですね。なんか、真理さんの活躍の国民的回顧と再評価がじわじわときそうで、期待したい感じです。
 

プロフィール

hatogairu kouen

Author:hatogairu kouen
大津波の甚大な被害は住民にも地域にも大きなPTSD(心的外傷後ストレス障害)。「夏を忘れた海」と生きる人々の心の復興を願う。三陸海岸K市育ち,杜の都在。

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