MW25 映画「この世界の片隅に」心につきささりました


 今話題のアニメ映画「この世界の片隅に」は、片渕須直監督、漫画家こうの史代原作、主演声優 のん(本名:能年玲奈)で、戦時中の広島県呉市(東洋一の軍港、呉海軍工廠のある港街)に嫁いだ「すず」さんとその家族の日常を描いた物語です。

 仙台でも二館でしか上映していないため、週末はさけて、12月1日の会社帰り、夜9時ごろからの上映を見ました。仙台駅東口、100名に満たない一室、ミニシアター。若者を中心に画面の見にくい第一列を除き満席でした。全国では上映後、拍手喝さいが湧き上がったとの報告もありますが、東北人は、仙台の若者もシャイなのか、小さく拍手したのは私とほかのお客さんの二名ほどでした。全員が、制作資金の援助をされたクラウドファンディングの名簿の表示が終わるまで、静かに画面を観て、余韻に浸りました。

 このアニメ映画は、ほのぼのとしたシーンやユーモアにあふれた作品ですが、私には珍しく、翌日、その翌日と、思い出しては号泣したくなるほど、何故か深く心に突き刺さる作品となりました。

  「この世界の片隅に」公式ウェヴサイト

  吉永小百合さん「この世界の片隅に」を語る
 
  #jamtheworld 「この世界の片隅に」 20161213 #jwave

  この世界の片隅でトップ03

 浦野すずさんは、18才で広島から呉にお嫁に来ました。海軍関係に勤める北條周作氏に見初められて・・・

  映画『この世界の片隅に』予告編 シネマトゥデイ

  軍艦と呉この世界の片隅で

 呉は、広島の近郊。三方が山に囲まれた天然の良港で、防御にも適した地形です。国内屈指で東洋一といわれた軍港で、呉海軍工廠がありました。戦艦大和はここで海軍によって建造され、同型艦・武蔵が、大和の設計図を基に長崎港の三菱重工業(株)長崎造船所で作られたのです。建造後、武蔵も呉港を母港とし何度も修理や改造、給油の為に寄港し、大和と武蔵が並び停泊したことがあったようです。長崎への原子爆弾は長崎造船所を狙ったものともいわれ、広島と長崎は確かに深い縁があるものと思われます。

  In This Corner of the World (Trailer)

  なんでもたべねばならぬのじゃ

 野草の数々、大葉、はこべら?「なんでもたべねばならぬのじゃ」・・・母からも聞いた戦時中の日常でした。それでも、すずさんは、えらいです。いつも、楽しく、朗らかにごはん支度をします。戦時中、庶民は心こそ、まけちゃいられません。若奥様、心意気が可愛いですなぁ~。

  楠公めしnon10

 楠正成公のごはん増量作戦、楠公めし(なんこうめし)。のんちゃんの語り口も楽しく、調理法を解説します。ただ、お米をあの手この手でふやかすように増量させますから、おいしく調理するのは難しいのでしょう。誰一人、おいしいと言わないよ~。

  戦時中の元原爆ドーム

 広島市内の旧広島県物産陳列館、きれいですね。現在の原爆ドームです。広島県物産陳列館は、1910年(明治43年)に広島県議会で建設が決定され、5年後の1915年(大正4年)に竣工した、歴史的な大正建築だったんですね。

  絵描きのすずさん

 すずさんは、子供の時から絵が上手。まるで、絵描きです。戦局が悪化する中、軍港の町は何度も空襲を受け、すずさんは大切な可愛いめいを失います。また、自らも大切な右手を失い画が描けなくなるのでした。日本各地にあった米軍機の激しい空襲による一般人の被害の象徴として描かれているのだと思います。

  広島の街

 片渕監督の熱意に影響され、呉市と広島市の方々が、映画つくりに協力しました。かつての街並みとそこにいた家族を、作画に反映させた、細やかな映画つくりが行われました。

  かけがえのない日常 (この世界の片隅に)

  戦い終りて518957_615

  戦い終りて・・・呉の実家に帰る北條周作氏とすずさん、広島から連れてきた女の子・・・

  コトリンゴ /「 悲しくてやりきれない 」

 主演声優、すずさんの声は、のん(本名:能年玲奈)さんです。兵庫県出身の彼女は、御存じのように、東日本大震災後、2013年のNHK連続テレビ小説「あまちゃん」で主演の天野アキを演じ、震災でひどく傷ついた三陸の人々を楽しく笑いで励ましてくれて、同時に全国的にブレークしました。この映画を観たいと思った動機は、彼女を、事務所との関係がこじれて苦労しているここ数年、陰ながら応援してきたことが大きな要因です。しかし、身近なところ、90才になった私の母も三陸海岸の製鉄所のある街でアメリカ軍の艦砲射撃の中、生き延びました。だから、共感しているのでしょうか。

  広島にてのんちゃんと監督

 原爆ドームの見えるテラスから、片渕監督とのんちゃんです。

  舞台挨拶この世界の片隅で001

 舞台挨拶、大きなフリップの「大ヒット上映中」が現実になろうとしています。ブレイクって良いものですね。

 朝日広告この世界の片隅で161112

 おわりに、少々長いですが、今回は珍しく民放のように骨のあるところを見せているNHKによる紹介を二三あげてみます。

  NHK特集ダイジェスト 映画「この世界の片隅に」 こめられた思い

  おはよう日本「この世界の片隅に」特集

 今後、すでに海外での上映が決まっているとのことです。

  In this Corner of the World - Imagine Nation - WORLD TV

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MH17 吉村昭著「戦艦武蔵」,「空白の戦記」を読んで


 たしかに愛情を添えてはいるが、冷徹なまでに残酷な大東亜戦争の記憶を、綿密な取材で物語る。吉村昭氏の文学は、歴史書でもあります。
 戦艦武蔵の建造中の、情報隠しや厳重な図面管理が生んだ悲劇、また、フィリピンのレイテ沖の激戦で、米軍の多数の航空機の集中攻撃で沈んだ戦艦武蔵。その生存者のその後も追いかけ、日本に帰ることなく他の戦地に配転され陸地戦でなくなった兵士が多いことを淡々と書き記す吉村氏。
 今年もまた、八月、広島・長崎の原爆投下の日と終戦記念日を迎えます。挑発国家・北朝鮮のミサイル攻撃は要注意ですが・・・。(日本のミサイル防衛網は本当に機能しているのでしょうか。)

 日本人なら、皆、あの戦争の史実を学ぶべきでしょう。戦前の日本にとって仮想敵国はアメリカだったこと。米英との中国大陸での利権争いと日中戦争。日本陸軍、その代表的な関東軍の思惑と行動。大東亜戦争に突入した理由(アメリカ側は太平洋戦争と呼ぶ)。
 また、大日本帝国海軍に関しては、日露戦争の日本海海戦の勝利を引きずる大艦巨砲主義。航空機による制空権確保下の艦隊決戦という幻想。真珠湾攻撃と珊瑚海海戦など初期の戦いを除くとガダルカナル、マリアナ、レイテ沖海戦等の連続するいたましい玉砕を生む苦戦と制空権と制海権の相次ぐ後退。不沈艦と呼ばれた世界一の大型戦艦の大和も武蔵も竣工後およそ2~3年で多数の米軍機の魚雷攻撃でなすすべなく沈んだ経緯。数限りなく続く捨て身の特攻機攻撃・・・
 アメリカ軍に沖縄に上陸され、さらにどんなに空襲を受けても、陸軍による本土決戦が合言葉となったわけ。戦争の悲惨さとやめるにやめられない日本人の性質と根本的な考え方。
 昭和の歴史を学ぶことは、日本の、そして周辺諸国との平和を守るうえで、やはり温故知新、誰もがなすべき義務と思われます。

  吉村昭_戦艦武蔵文庫表紙

 (注)戦艦武蔵は、高校時代、1974年頃に読み、最近、再読しました。
    
 大和型戦艦001
 大和型戦艦  建造時、大和(呉海軍工廠)は一号艦、武蔵(三菱・長崎)は二号艦と呼ばれた。
 また、三号艦は横須賀海軍工廠で起工されたがミッドウェイ海戦の惨敗で空母に改装し、呉への回航中、米潜水艦により撃沈。さらに四号艦は呉で起工されたが建造中止となった。

 【戦艦武蔵の諸元】
 ・起工 昭和13年3月29日(三菱重工業・長崎造船所) 第二号艦として
  ちなみに 第一号艦の大和は昭和12年11月4日に起工(呉海軍工廠)
 ・艦の長さ 263m/最大幅 38.9m
 ・排水量; (公試状態)68,200トン/(満載状態)71,000トン
 ・重油満載量 6,300トン,航続距離 (16ノットで)7,200浬(かいり)13,334km
 ・動力 蒸気タービン機関 (当時ディーゼル機関は安定性に欠け断念)
 ・速力 27ノット(時速50km),軸馬力 150,000馬力
 ・主砲 46cm(18インチ)砲さ三連装三基計9門,副砲 15.5cm砲 12門
 ・搭載飛行機 6機、乗員数 2,300名
 ・進水式 昭和15年11月1日 8時55分 (大和 昭和15年8月8日)
 ・太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃) 昭和16年12月8日
 ・この時期に第一号艦、「戦艦大和」が竣工した 昭和16年12月16日
 ・武蔵の艤装完成,海上公試開始  昭和17年6月18日 
 ・竣工引き渡し 昭和17年8月5日 (呉港)
 ・初代艦長 海軍大臣 有馬 馨 
 ・配属 連合艦隊第一艦隊第一戦隊

 艦の大きさは、アメリカ艦船がパナマ運河を通過して太平洋に出るため艦の最大幅が限られており、それより大きな幅、大型艦として計画されたという。

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 昭和17年8月 竣工した頃の戦艦武蔵 (Wikipedia「武蔵(戦艦)」より)
 軍艦行進曲 (Japanese Navy march)

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 南洋の前線基地「トラック環礁」の武蔵と大和 [1943(昭和18)年5月]

 武蔵は、二号艦で軍司令部の要求により設計変更が多くなされた。また、大型客船を手掛ける民間造船所が建造したため、艦長室など内装が充実。このため、トラック泊地等では旗艦をつとめ、指令長官・山本五十六を迎えていた。

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(Wikipedia「武蔵(戦艦)」より)
 山本五十六はソロモン・ニューギニア方面の航空機による「い」号作戦の陣頭指揮をとり好結果を残した後、ラバウルから他の前線基地を視察するため飛行艇での移動中、敵戦闘機の攻撃を受け殉職した。その遺骨を横須賀まで運んだのも武蔵だった。

 三菱長崎造船所DSCF7933
 大和型戦艦二号艦「武蔵」を建造した三菱重工業長崎造船所
  (以下、テレビ画面 NHK-BS特集「戦艦武蔵の最後」2017年1月17日より)

 ガントリークレーンDSCF7934
 三菱重工業長崎造船所のガントリークレーン (当時の一部を現在も使用)
 普段は漁具に使われる棕櫚縄で、クレーン全体を覆い機密保持が行われた。

 三菱重工業の海軍艦船や商船の建造実績は十分にあり、巨大戦艦「武蔵」の造船そのものは従来技術で対応できた。ただし、狭い長崎港での機密保持に多大の労力をさき、憲兵ら警備人員が多数投入された。また、一枚の図面を焼却紙類へ故意に投棄した事件で、真面目な若き技術者の人生が大きく狂う悲劇が生まれた。
 
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 武蔵の主砲 当時世界最大級の46cm砲
 射程距離 41,400m (41.4km),砲弾飛行高度 最高5,000m (5km)
 砲弾重量 1.5トン/個,発射速度 40秒(二分で三発)

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  武蔵の主砲と周辺状況 、量より質で建造された大型戦艦だった。
 
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  武蔵の主砲発砲時の黒煙の想像図
  (※)最近、遺族の保有する砲撃の写真が公開されている。

 一ノ瀬俊也著戦艦武蔵カバー20160725
 一ノ瀬俊也著「戦艦武蔵」カバー,中公新書,発行20160725

 一ノ瀬氏が上の書で言うように「1941年から45年まで続いた日米戦争は、基本的には島嶼(とうしょ)戦、すなわち広大な海洋上に浮かぶ島々の争奪戦であった。」(p67)
 アメリカ軍の島嶼獲得作戦は、1)圧倒的な航空勢力で制空権を得る。2)空爆や戦艦の主砲で地上施設を破壊する。3)海兵隊や陸軍の部隊が大挙進行し、島を制圧する。この過程で、補給路を絶たれた日本軍部隊は悲しい「玉砕」を繰り返し、後退を続けた。

 日本が第一次大戦の戦勝国側としてドイツから獲得した南洋の海域、島々も、ソロモン諸島のガダルカナル、ラバウル、重要な基地「トラック環礁」、パラオを失い、マリアナ諸島のサイパン、グアムの各島々を占領された今や、フィリピン諸島の東岸、レイテ島に米軍の上陸を許すことになっていた。日本にとってインドネシヤの油田の供給路を維持すするためにも、フィリピン死守は重要な命題であった。このような背景で、今まで多量の重油を消費する大和と武蔵を温存していた日本海軍は、活路を見出すためフィリピン西側のボルネオ島の油田地帯(ブルネイ)から連合艦隊として勇ましく出撃したのだった。 これが有名な「レイテ沖海戦」である。

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 【レイテ沖海戦】 昭和19年10月22日 8時00分 ブルネイ泊地よりレイテ沖をめざし出撃。右端より戦艦長門、武蔵、大和、榛名、金剛、重巡洋艦4隻 (Wikipedia「武蔵(戦艦)」より)

 《軍歌》 軍艦マーチ("Gunkan māchi "~March "Man-of-War"~)

 シブヤン海を行く武蔵
 シブヤン海を行く武蔵 (Wikipedia「武蔵(戦艦)」より)

 レイテ沖海戦の武蔵_攻撃を受ける
 レイテ沖海戦の武蔵_米軍機の激しい攻撃を受ける (Wikipedia「武蔵(戦艦)」より)

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 【レイテ沖海戦】 アメリカ軍飛行部隊による魚雷と爆弾の攻撃をうけ黒煙をあげる「戦艦武蔵」(右)と左旋回する「戦艦大和」
(Wikipedia「武蔵(戦艦)」より)

 武蔵は大和に比べ乗組員の訓練期間が短かい欠点があった。また、敵の空中爆撃に対し大和の副砲をはずして据え付けらた最新の12.7cm連装高角砲(6基)が生産が間に合わないため武蔵には整備できず、防弾のない25ミリ三連装機銃を多数配置してあった(合計119挺)。このため、対空火力が弱く、米軍機が投下する魚雷や爆弾の回避が遅れ被弾を繰り返し、艦首左舷甲板が沈水、ついに注水機能による傾斜復元が出来ない状態に陥り、日没後に沈没した。

 「米軍機の六次にわたる執拗な波状攻撃で多数の魚雷・爆弾に被弾、艦体傾斜、艦首甲板進水、沈没セリ。昭和19年10月24日; 全乗組員2,399名中、駆逐艦による救助・生存者1,376名」(吉村昭)

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 【レイテ沖海戦】 度重なる米軍機の集中攻撃で艦首が進水した「戦艦武蔵」 (Wikipedia「武蔵(戦艦)」より)

 【戦艦武蔵の戦況】  一ノ瀬氏の上記著書から
 昭和19年10月22日 8時00分 ブルネイ泊地よりレイテ沖をめざし出撃
 23日 早朝 旗艦 重巡洋艦「愛宕」、同「麻耶」、アメリカ軍潜水艦により撃沈
  旗艦は「大和」に変更,救助された「麻耶」乗組員は「武蔵」に移乗
 24日 連合艦隊 米対空戦闘
 米機来襲状況(細かな数字は諸説あり)
  第1次 10時00分頃 来襲 17機 ,命中 魚雷 1、爆弾1
  第2次 11時38~45分 来襲 16機,命中 魚雷 3、爆弾2
  第3次 12時17分頃 来襲 13機 ,命中 魚雷 1
  第4次 12時23分頃 来襲 20機 ,命中 魚雷 4、爆弾4
  第5次 13時15分頃 来襲 なし ,命中 なし1
  第6次 14時45分頃 来襲 75機 ,命中 魚雷 11(不発2)、爆弾10

  猪口敏平艦長(大佐、日本海軍屈指の砲術理論の権威)
   19時05分以降 総員退艦命令、遺書を加藤副長に託し艦と共に逝く。
  駆逐艦により生存者救助。敵潜水艦を警戒し、午後11時、捜索打ち切り。

 【戦艦武蔵の生存者たち】

 武蔵の沈没は、まだマニラを日本軍が占領していた時期で、結果的に終戦までの期間が大和の四か月に比べ10か月程度と長かった。このため、海軍は1300名余りの生存者のうち、先に士官を日本に戻した一方、武蔵沈没が知れ渡らないように、生存者の大半をマニラには送還せずマニラ湾の要衝コレヒドール島に上陸させ、仮兵舎に隔離した(加藤部隊とよばれた)。後に、輸送船さんとす丸で台湾へ、改装空母隼鷹(じゅんよう)で内地へ送還を試みたが、敵潜水艦に撃沈され、少数のみが生還した。その他、多くの誇り高き海軍兵は、まともな装備、靴、衣類もない状態で、さらにフィリピン各地の地上戦に投入された。日本軍は味方にも非情過ぎたのだ。戦艦は日本国民にとり、一見、豪華な高揚感をもたらすが、やはりこれが戦争の実態、本性なのである。今の日本人の若者は決して誤らないでいただきたいと強く思います。

 【シブヤン海における戦艦武蔵の捜索】 
         
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 米国ポール・アレン氏らによる撮影 「沈没した武蔵の艦首」 2015年3月

 「戦艦武蔵の最期」VFXで完全再現! NHKスペシャル /NHK

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 シブヤン海の海底に散在する武蔵の設備品(NHK特集「戦艦武蔵の最後」2017年1月より)

 海ゆかば (Umi Yukaba) ~If I go away to the sea~ Japanese military song

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MH02.1 日本人の心について

 

 8月となり、子供たちや学生は夏休みですが、大方の日本人は、お盆休みを除くと、真面目に労働するという勤勉な国民であります。国民皆が認めるように、エネルギー資源や鉱物資源をほとんど持たず、勤勉な労働と科学技術のみが利潤をもたらす小さな島国ですから。

 1930年代から終戦の1945年まで、日本人は日中全面戦争および真珠湾奇襲から大東亜、太平洋戦争終結まで、懸命に生きた時代でした。
 ことに最後の昭和20年、アメリカ軍の猛攻による沖縄の激戦、戦艦大和(すなわち日本海軍)の最後、B29による本土空襲、8月6日の広島および8月9日の長崎の原爆被爆、8月15日の玉音放送と終戦、これが語り継がれる日本人の苦闘の歴史です。

 戦争は、日本国民を苦しめ、隣国・アジアを苦しめた事実と、最近指摘される欧米に植民地化されていたアジア諸国を独立させる勇気をアジアの人々に与え、戦後次々とアジア諸国が独立したという事実の双方があり、おそらくもっと多面的な要因もあるのかもしれません。
 いずれ、ある面のみの偏った評価は、日本人の心に強い屈曲を与え、後の時代に悪影響をもたらしかねないと思うのです。
 決しておごらず、かといって、勇敢にたたかった日本人には、平和なアジア共同体を作り、日本にも安定なエネルギーや資源が確保できるように強力な友好関係を築きたいという要求があったはずです。
 一方、日本や中国の貢献や投資によって、東・東南アジア、インド、トルコなどの西アジア、中南米、アフリカの経済や科学技術力が発達すると、今後、欧州の地盤沈下、アメリカの相対的な力の低下がみられることになるでしょう。この中で、様々な国際間の衝突や多民族国家の内紛が生じると思われ、事実そのような事態に苦しむ国家もあるわけです。

 話はかわりますが、日本人の女性、特に良き妻に「才長けて見目麗しく情けあり」とは、昔からの日本人の理想です。時は現代、日本人の女性はどうでしょうか。今時の人気のアイドル・女優(堀北真希や能年玲奈、AKBなど)、かつての人気アイドル・歌手、三人娘(美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ)、吉永小百合、新・三人娘(小柳ルミ子、天地真理、南沙織)、中三トリオ(森昌子、桜田淳子、山口百恵)、キャンディーズ、ピンク・レディー、夏目雅子、小泉今日子、松田聖子等々・・・皆、実際的に「才長けて見目麗しく情けあり」、賢く、きれいで、やさしく、がんばり屋と思われます。日本人の求めるものは、やや男目線かもしれませんが、上は皇室から下は身内の妻や娘まで、このような片鱗があると思うのは、私だけでしょうか。「カワイイ」という日本的な形容詞をはじめとし、このことは日本の歴史や風土なのでしょうか。

 昨日、ケーブルTVでふと「加藤隼戦闘隊」の映画(カラー版)を観て、ひどく感動しました。隼(はやぶさ)は、海軍のゼロ戦とならび称される陸軍の主力戦闘機でした。この隊を率いた加藤建夫隊長(最終位・陸軍少将)とその部下の活躍は、ゼロ戦や海戦の多少の知識しかなかった私には衝撃でした。このような記録は、現在、学校教育では禁止されておりますが、加藤隊長が戦死した部下や家族、そして家を守る細君をいたわる精神は、やはり、それも、「良き日本人の心」を表していると思うのです。

ああ陸軍隼戦闘隊001
ykazssさん あゝ陸軍 隼戦闘隊

  喧嘩は、その戦いがひどい激戦であっても、また理由のある戦いであっても、勝った側には「あの時のことは忘れましょう。」と言えますが、負けた、辛酸をなめた側には、いつまでも忘れられない苦しみとなって、末代までも続く不の感情となります。あの韓流ブームも日韓ワールドカップ同時開催も、韓国人の本当の気持ちを変えるものではなかったようです。先に述べたように戦争には、日本の立場もあったわけですが、韓国人・朝鮮人民、中国人民の心の深い傷も、末代まで続く苦しみであったと、やはり認識せざるをえません。一方、日本国民、特攻や激戦に逝った日本人、原爆に被ばくし得体のしれない悲惨さに苦しんだ方々も、大変な苦しみだったことには、苦痛として変わりはないと思われます。

 「加藤隼戦闘隊」は、職業軍人(航空学校教官)で人格者の隊長が率いる人間的な集団ですが、インドネシヤのパレンバン油田確保の大活躍など、ご批判もあるでしょうが、日本人として心躍る活躍が描かれています。そして、70年以上前に、このような戦闘をする日本人が、常に専制国家北朝鮮のミサイル発射におびえ、中国や韓国が話し合いよりも準軍事的行動で恒常的に領海侵犯する近年、集団的自衛権の延長で、いつ、自身が隠れもっている「加藤隼戦闘隊」の活躍に心躍る、日本人の心の一面に火がつかないかと、強く心配になります。

Tateo Kato Hayabusa
加藤建夫 隼戦隊長 (撮影1942年)

 加藤隼戦闘隊の隊歌とその飛行の様子です。
 ShVAK20さん 加藤隼戦闘隊-Kato Hayabusa Fighter Wing-
 インドネシアのパレンバン油田の確保には落下傘部隊が活躍しましたが、加藤隼戦闘隊の援護が大きな貢献をしました。
 空の神兵
 次は加藤隊長の部下、檜(ひのき)さんのお話です。空中戦で被弾し片足を失いましたが、意識朦朧とした中、亡き隊長に励まされ生還されたとの話が伝わっています。
 隼を語る/檜與平 エースパイロットの証言

 閑話休題、ここで海軍の方ですが、ゼロ戦で有名なラバウル航空隊の歌をお聴きください。ずいぶん元気な軍歌なので、南洋の戦いが激戦となる前、日本海軍の戦績が良かった初期のものなのでしょうか。
 《軍歌》ラバウル海軍航空隊( Rabaul Naval Air Corps)

 さて、真理さんは、今年、2014年7月30日発売のゴールデン☆アイドルのシングルジャケット集の巻末で、「あの頃はファンの為に生きていました。今は娘もいましてファンの為だけでなく私の為にも生きています。」とおっしゃられています。真理さんは外国人のファンの方とも英語で静かに流暢に会話される才長けた方です。かつて、誰もが目を見張る「麗し」のかわいいアイドルでしたが、その本質は「情けある」心優しき女性であるということでしょう。(私個人は昨年、新宿のスクリーンコンサートで、短くご挨拶し、握手していただいただけですが、それでも、何度も会われたファンの方々の感想が良くわかります。)

 真理さんは、国民的スーパーアイドルの二十代の後、三十代でカメラの前で裸身をさらし、その後もコメディエンヌ的にひょうきん族や他の類似の番組にも出演されました。その中で、あれほど光り輝いた「白雪姫」を捨てざるをえない辛酸をなめました。事務所の方針や経済的な必要で、苦しい選択であったのでしょう。だからこそ、今、カメラの前、メディアの前に進んでは出たがらないと思われます。いつも明るい笑顔の下に、どれだけ、トップアイドルゆえの孤独感、そしてマスコミの有らぬ誹謗、中傷に苦しんだことでしょう。
 真理さんが「今、横浜の陽のあたる素敵なお部屋に住み」、一人娘・真保さんやご友人の来訪がよくあるとの近況を知り、真理さんが好んで歌う「小さな人生」を謳歌されていることに、静かに安堵する喜びを持つのが、真理さんファンの共通した感情ではないでしょうか。

 少し、とりとめのないお話となりましたが、歴史的認識は、嘘も、詭弁も、偏った見方も、いつも生じうることを念頭に置き、語り継ぐことで、致命的な誤りの繰り返しを未然に防ぐ一助になるのではないか。そう想う、真夏の杜の都、日曜の午後でありました。

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hatogairu kouen

Author:hatogairu kouen
明るき癒しの歌声、天性のファルセットを紹介し、悩める日本人を応援します。

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