MR98 北朝鮮が騒々しいのでサブマリンについて


 いやはや、近々の話題は、やはり北朝鮮のミサイル、大陸弾道弾に対する心配で、アメリカのみならず、ロシヤ、中国もあわただしい動きを示しています。
 核兵器の使用は、唯一の被爆国であり、原発の大津波によるメルトダウンも経験中の日本にとっても、世界にとっても、決して行ってはいけない愚行と言えましょう。

 安倍首相は、このようなときではありますが、野党勢力の衰退している今を好機と判断し、憲法で自衛隊を明確化させるために、あえて衆議院選挙を行い、国民に信を問いただすという、行動に打って出てました。(しかし、小池さんの希望の党結成によって野党第一党の民進党が事実上解体し、野党再編成が生じました。マスコミに言わせると政党には政権獲得選挙、国民には政権選択選挙の様相ですが、ホントでしょうか?)
 
 今年の夏、広島・長崎の原爆を運んだ戦艦インディアナポリスを魚雷で沈めた日本海軍の伊号第58潜水艦(注1,2)の話や長崎沖で終戦直後、アメリカ軍に沈められた多数の日本の潜水艦の探査結果が詳しく報じられました。

(注1)艦長 橋本以行少佐。1945年7月29日、米重巡洋艦・インディアナポリスは、原子爆弾をテニアン島に搬送した直後、寄港したグアムからレイテ島に航行中、日本海軍・伊号58潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈した。海上に残った米兵はサメの恐怖に怯えつつ、体力の消耗激しく死者多数。米艦長は軍法会議にかけられ自殺。戦後、橋本氏らの協力を得て無罪の逆転判決を勝ち取る。Wikipediaより
(注2)2017年8月18日、マイクロソフトの共同創業者ポール・アレンが率いる民間のチームが太平洋の水面下18,000フィート (5,500 m)の深さの海底で、沈没した本艦を発見した。チームは戦艦武蔵発見に次ぐ功績となった。
 
 私は、この夏、ゼロ戦について学んだ後に、太平洋戦争中の日本海軍の潜水艦について、吉村さんの本を読み、驚きの事実を学んでいましたので、その概要をご紹介したいと思います。

【概要と感想】 吉村昭著「深海の使者」1973(昭和48)年~文春文庫(1976年),2011年新装第1刷を読んで

 ドイツと連絡を取るために活躍した日本海軍潜水艦の運用の実話。伊号潜水艦の派遣第一号(伊号第三十潜水艦:艦長 遠藤 忍中佐)はイギリス軍の哨戒をさけ南アフリカ喜望峰の沖合(荒波海域)経由でドイツとの往復に成功した。ドイツではヒットラー総統、潜水艦隊司令官デーニッツ大将ほかドイツ側に歓待され(艦長にクロス勲章授与)、日本国内でも大々的に報道された。しかし、シンガポールに一時寄港した折、要人やドイツ軍提供の兵器図面は飛行機で一足先に帰国させていたが、潜水艦は帰国目前、シンガポール海域で機雷に接触し沈没した。

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 写真1:伊号第31潜水艦。横須賀海軍工廠の船台に乗った進水前日の姿
 (時事通信社HP 時事ドットコムニュース 日本海軍伊号潜水艦 写真特集)

 また、別の伊号潜水艦(伊号第二十九潜水艦:艦長 伊豆寿一中佐)は、インド洋上でドイツのUボートからチャンドラボースを引き取り、インド独立指導者の日本召還に成功した。

 日本は同盟国の要人や技術者の受け渡し、およびレーダーやジェットエンジンなどの先進技術の入手を目的に、航空路の開拓をイタリヤ、ドイツと模索し、また朝日新聞社号や航空研究所の長距離航空機でヨーロッパとの連絡を試みた。しかし、ソビエトとの日ソ不可侵条約に抵触することを極度にきらった東条内閣によって、大陸直行コースは許可されず、距離の長大なインド洋周りを余儀なくされたが、いずれも失敗に帰した。

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 写真2:伊号第八潜水艦 ドイツへの往復を果たした唯一の潜水艦だった

 大東亜戦争後期、ドイツとの連絡は潜水艦のみとなったが、伊号潜水艦の日本本国への帰還成功は二回目の1艦(伊号第八潜水艦:艦長 内野信二中佐)のみで、他の四艦(伊号第30,第34,第29,第52潜水艦)は全て、アフリカ西岸、大西洋または帰還目前の西太平洋にて、連合軍の主に掃海や潜水艦攻撃によって撃沈された。

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 伊58号217探査結果
 写真3,4,5:今年2017年、長崎県沖の海底で探査された伊号第58潜水艦 (悲壮な特攻・人間魚雷回天の母艦でもあった)

 戦争末期、大型伊号400型2艦は、一時パナマ運河攻撃を計画したが、終戦時、太平洋上でアメリカ軍に捕捉、本国に回航され、驚異的な技術力を詳細に研究された後、ハワイ沖で爆破、海中深く沈められた。また、新鋭艦の水中高速潜水艦・伊号200型は、戦後の主要国の潜水艦の原型となったとされる。

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 写真6,7:伊号400型は終戦後、アメリカに回航させられ、調べつくされ、撃沈された。艦体と艦橋の間に晴嵐とよばれる戦闘機を3機収納できる円筒形を持つ。

 日本軍にとって電子探知技術の立ち遅れは、ドイツからの優れたレーダー機器を積んだ多数の潜水艦が撃沈され、解消できない重大課題で終わった。また、日本側垂涎のドイツのジェットエンジンの設計図も潜水艦と共に沈み、日本の戦闘機の革新に影響を与えることが出来なかった。ただ、優れた潜水艦建造技術は戦後の冷戦に貢献したと思うと複雑な心境であった。
(書籍の概要と感想、おわり)

 時事ドットコムニュース/日本海軍伊号潜水艦 写真特集


 宇宙戦艦ヤマト初代001

 バンダイ宇宙戦艦ヤマト

 ここで、初め1974年10月6日~1975年3月30日(注3)にテレビ放映され、今も新しいアニメ映画が製作されている宇宙戦艦ヤマトをふと思い出しました。そういえば、この艦艇は、あの戦艦大和と伊号400型の合体型のようなイメージがあることに気づきました。

 (注3)昭和49年10月から昭和50年3月。天地真理が「想い出のセレナーデ」を歌い、NHK紅白歌合戦に三回目の出場をした日々を含む期間。小生は高校二年生の受験勉強期。昭和49年の秋はラジオで長嶋茂雄選手のジャイアンツ引退セレモニーを聴きながら、数学の問題を解いていたような記憶がある。確かにあまりテレビを見ない時期でした。


宇宙戦艦ヤマト(松本零士,1974)
序曲,オープニング&エンディング/佐々木いさお

 御存じのように、宇宙戦艦ヤマトはガミラス星の攻撃を受け、強い放射能に汚染され死に体の星に急変した地球に対し、放射能除去装置を譲渡してもらうために、はるかかなたのイスカンダルに向かうドラマですが、何故か今の日本に通じるようなストーリーです。

 日本、アメリカ、韓国、中国、ロシアは共同でこの事態を回避すべきでしょうし、回避してもらわなければなりません。
 今は、北朝鮮はミサイルを東北や北海道の上空を飛行させ、実験すなわち開発を行っていますが、東京上空を飛行させることはいとも容易だということを、関東や中部・近畿の大都会の方々には重く受けてめてほしいと思うのです。


宇宙戦艦ヤマト2199   「真っ赤なスカーフ」

 STAR BLAZERS 2199 TRAILERS (13min)/yamatocrew01


 未来とは言わないが、現代は米ソの冷戦時、原子力潜水艦と潜水艦発射ミサイルSLBMが開発され、世界の海にひそかに活動していた。
 これは、伊号400型の戦闘機3機発艦タイプの戦後の発展形であって、潜水艦から核弾頭搭載可能なミサイルを発射する技術は、当然ですが世界の諸国への拡散があってはならない技術なのです。


弾道ミサイル発射型オハイオ級原子力潜水艦
弾道ミサイルを発射出来る米オハイオ級原子力潜水艦

SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)概要図
潜水艦発射弾道ミサイルSLBM概念図

北朝鮮潜水艦001
北朝鮮の潜水艦とみられる(ソ連製旧タイプ?)

北朝鮮潜水艦ミサイルか
北朝鮮の潜水艦ミサイル実験か?

そうりゅう海上航行中
日本製 海上自衛隊が誇る静音型・潜水艦「そうりゅう」
自衛隊哨戒機や米艦艇との共同訓練を実施している。


The Beatles - Yellow Submarine


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サブマリン707b


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ネット上で探せるアニメの「サブマリン707」です!なつかしい・・・

 『サブマリン707』(サブマリンななまるなな; 連載期間1963年~1965年)は、漫画家の小沢さとるが『週刊少年サンデー』に1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)まで連載した海洋冒険漫画。太平洋で起こる怪事件に海上自衛隊の潜水艦が立ち向かう。プラモデルの発売との相乗効果で人気連載となり、後に続編が発表された。
 初めての本格的潜水艦漫画として、連載と併せて用語解説記事などが書かれ、可潜艦・セイル・シュノーケル・ホーミング魚雷・ソナー・フリゲートなど、潜水艦や対潜戦に関する知識や用語の(少年への)普及に大きく貢献した。(Wikipediaより)

 そうでした。このマンガ、プラモデル、子供の頃の思い出ですね。

 こくりゅう実習潜航001

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 こくりゅう実習潜航003

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 潜水艦 【こくりゅう 密着取材】 報道番組

 
   さらば宇宙戦艦ヤマト/ヤマトより愛をこめて 沢田研二

(おわり)

MH02.3 ゼロ戦について学んだこと


 また、八月、広島・長崎の原爆犠牲者の慰霊式典があり、15日に72回目の終戦記念日がやってきます。
 さらに、12日は日航ジャンボ機が制御不能となり群馬県上野村の御巣鷹山に墜落した慰霊の日、もう33回忌なのですね。
 この日本には、地震・津波・豪雨という自然災害が繰り返し起こりますが、戦争や大事故はまた別の悲惨さがあり、考えさせられることが多くあります。

 今は、平和ボケした日本人も、北朝鮮の核弾頭搭載可能といわれる長距離ミサイルの脅威におびえています。北朝鮮が何故あそこまで核武装するかは、容易には理解できませんが、現実はアメリカ軍だけに頼り切ることは出来ないのではないかと思うのは私だけでありましょうか。
 中国、ロシア、アメリカ(かつてはイギリス)の三大国の均衡の上に存在する北朝鮮。朝鮮半島の安定と平和は日本にとっては明治時代からの常に重要な国土防衛問題でした。戦争、戦闘は避けるべきというのは当然ですが、ねばり強い外交交渉が、アメリカと日本には求められていると信じたいと思います。

 いずれ、日本の学校教育は現代史を十分教えていない状況があり、特に若い方々は安直なネット動画、ウェブ情報だけでは、総合的な視野は得られないのではと危惧されるところです。もうじき、60才にせまる小生は、書籍も満足に読めなくなる前に、今更ながら日本史や明治から昭和の歴史を勉強し、先人の苦労や失敗、功績を出来るだけ学びたいという思いです。私は、二十歳から、一部の文学書と哲学書を除くと、狭い分野の理工学書を読み続けてきましたが、やはりこれでは日本人として大きな欠けがあるように感じています。

 
 今も飛行可能なゼロ戦が世界に数機、存在する。

 西欧科学技術の発展のもと、圧倒的な兵力および通常交通・生産技術で、世界を植民地化した西欧の帝国主義に対し、最後の帝国主義国家として、西欧に長きにわたり植民地化された東アジアとインドの解放、及びアジア圏の共存共栄と自由貿易を望んだ大日本帝国。帝国の実態は石油をはじめ資源に乏しく、工業力がアメリカに大きく劣る国家でしたが、国家経済的にアメリカ・イギリス・オランダと衝突しました。
 (ただし、確かに、帝国主義ですから、燃料・鉱物・素材資源の獲得を含め領土や植民地の拡大を重要な目的とし、日華事変後、満州、中国大陸、朝鮮半島など対外的にも、さらに自国の兵隊にも非道な人命軽視は当たり前の軍隊であったことは史実。日本軍・大本営は過酷で悲惨な戦争を是とし、国外のみならず、日本人からも非難と懺悔を求められて当然であり、反戦と非核の願いは、現在の日本人の共通の願いであることは言うまでもありません。)

 太平洋地域での大東亜戦争は、開戦直後、半年は連戦連勝の華々しい戦況でしたが、ミッドウェーの敗戦以後、有利な条件で停戦をしようとする考えはむなしい希望となりました。日本軍は国民には玉砕の美辞麗句に隠して、多数の悲惨な戦死者を出しながらガダルカナル島、ラバウル、トラック、マリアナ、フィリピン諸島(戦艦武蔵沈没)など南海の島嶼を次々失いました。昭和20年、激しい抵抗・防衛戦をしたものの硫黄島続いて沖縄(戦艦大和沈没)を明け渡し、さらに本土が米軍B29の降下する多量の爆弾、焼夷弾の空襲を受け、最期に広島・長崎への原爆で無条件降伏するに至りました。
 これらのことは、国民に広く知られていることですが、その具体的な細部を知らな過ぎるような気がします。

 この記事では、昨年からこの春にかけて読んだ「ゼロ戦」(正式名称;零式艦上戦闘機)に関する本から、ゼロ戦を中心とした海軍航空兵力の実情と歴史的経緯をまとめてみました。ゼロ戦についての話は、以下のように大東亜戦争の縮図のように思われました。

1.吉村昭著「零式戦闘機」 新潮社 昭和43年7月出版、新潮文庫版 昭和53年発行,平成25年51刷,372頁

 本書は、太平洋戦争前に開発され、終戦まで改造・製造された世界的にも優秀な戦闘機、海軍の零式戦闘機の設計、試験飛行、改良、正式採用、初戦の中国・重慶での驚異的な航続力と戦闘能力の発揮、その後の海戦での活躍、アメリカ軍の苦慮と多量の新型機による反撃の始終をまとめた技術的な記録書でもある。

 名古屋市港区大江町海岸埋立て地区にあった三菱重工名古屋航空機製作所。物語はこの製作所から戦闘機の試作機が牛車に乗せられ48km離れた各務原飛行場へ24時間かけて運搬する奇妙な光景から始まる。

 設計主務者は堀越二郎技師。堀越は上海事変の発生した昭和7年、民間四社試作競争において複葉機が大勢であった時代に無支柱単葉機を開発した(七試艦上戦闘機)。その後、昭和9年の試作競争で、堀越らは最高時速450kmの世界照準を抜く空中戦能力の高い戦闘機を製作した(九試単座戦闘機)。この機の量産機は九六式艦上戦闘機と呼ばれ、中国大陸で活躍を始めた。
 
 kazeジブリ風立ちぬ

 
 宮崎駿監督 アニメ「風立ちぬ」映像資料; 関東大震災から九六式艦上戦闘機
 そしてゼロ戦まで

 十二試艦上戦闘機(昭和12年度試作)の開発は、高度4000mにて時速500km以上の速度と優れた上昇力、長大な航続力を要求された世界最高峰の高スペックへの挑戦であり、当時の住友金属による超超ジュラルミンの使用、フレームの多数の穴あけ等の思い切った軽量化、20mm砲二台の搭載、引き込み脚の採用など、海外の航空技術を貪欲に吸収しつつ日本の工業技術の集積として設計され、試作機の試験飛行と改良を経て、皇紀2600年(昭和15年)にちなみ『零式艦上戦闘機』と名付けられた。

 海軍の横須賀航空工廠では、優秀な試験パイロットの急降下時の空中分解による死亡事故が発生した。急激な振動による空中分解・フラッター現象解決のため、松平精技師(戦後、新幹線の震動問題を空気ばねで解決したことは有名)が奮闘した。補助翼のマスバランスや操作剛性の改良などの困難な改修が航空工廠と三菱のタッグの元、急ピッチで進められた。

 この戦闘機は、パイロット達の猛訓練の後、昭和15年7月に正式採用され、中国大陸の重慶への長距離爆撃機掩護でデビューし、昭和16年12月の太平洋戦争開戦直後、真珠湾攻撃、台湾からの遠距離の比国・米軍基地攻撃、インドネシヤ制空権掌握という華々しい戦果を勝ち得た。これらの圧倒的な戦績により、海軍によるゼロ戦への信頼度は絶大なものとなった。

 
  実録 ゼロ戦の雄姿 飛行状況

 
  ラバウル航空隊~訓練度高く実戦経験者の多いゼロ戦部隊。ガダルカナル島奪回のための長距離戦闘やマリアナ沖海戦で熟練パイロットと貴重な航空機を多数失った。
 
 ゼロ戦は技術開発の急速に進む戦時において、単機同士の空中戦闘力に限れば約3年近くアメリカ軍機をしのぐ性能を保ち、三菱重工と中島飛行機(株)で最終的に約1万機、量産された。
 しかし、設計開発者の三菱では海軍からの要求で機体の改良が度重なり、次世代機開発には十分な時間がさけなかった。戦争後期、急降下制限速度が低く、防弾の軽視されたゼロ戦は、能力をアップした新型のアメリカ機に撃墜されることが極めて多くなり、これはゼロ戦の改良型では機体の強度が弱くエンジンの大型化が難しいため根本的な対処ができない問題だった。また、米軍の猛反撃で後退する日本軍では特攻機(神風)への悲劇的な常態化が生じていた。
 航空機工場では増産の要求との戦い、B29の本土空襲開始による工場の疎開、鈴鹿での女子挺身隊による最後の製造がなされた後、玉音放送による終戦をむかえた。まさに、ゼロ戦の誕生と活躍、その終焉は日本の太平洋戦争の縮図と言えると思われる。

 本書は、特に建設コンサルタントとして参考になった点は次の二点であった。

1) 名古屋市港区大江町海岸埋立て地区にあった三菱重工名古屋航空機製作所から、世界最先端技術の戦闘機(月産平均100機)が、昭和15年から終戦までの6年間、原始的な牛、後にペルシュロン馬にひかせた荷車で48km離れた各務原飛行場へ、牛で24時間、馬で12時間かけて運搬された。当時の道路は悪路で、トレーラーでの運搬は震動が大きく機体を傷めずに運搬することが出来なかった。戦時中、社会資本は港湾や空港等軍事施設を優先とし、道路整備は極めて遅れた状況であった。

2) ゼロ戦設計主務者である堀越二郎技師に、発注者(海軍航空廠)から要求された従来にない高スペック、トレードオフ性能(戦闘能力・機動性、航続性、高速度、20mm砲という重装備)に対する発注者との勇気ある率直な交渉、厳しい受け入れ検査、数多の試験飛行と修正設計という設計者としての不断の努力(一時入院)に敬服した。

 次の書籍は零戦のメカと戦歴、優秀性と限界、連合国の戦闘機や爆撃機について詳細に図解、解説を行っています。今の日本の工業技術、すなわち機械工業(自動車にも関係)、金属工業、電子機器、ガラス素材工業などかなりの分野に継承していることが想像されます。

 図解ゼロ戦のしくみ表紙

2.カラー版徹底図解「零戦のしくみ」日本航空史に燦然と輝く名機の栄光と悲しき末期,矢吹明紀ほか著,新星出版社,2013.8,全223頁.

 空母赤城ほか

 空母飛龍ほか3空母
  艦上戦闘機とは空母での離着陸が出来る戦闘機。昭和17年6月、空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍の正規型空母四台はミッドウェー海戦でアメリカ軍の空母艦載機等の攻撃を受け沈没。翔鶴はマリアナ沖で、瑞鶴はレイテ沖の海戦で没した。(同上、72-73頁)。

 ゼロ戦の設計と製造については、海軍による当初要求性能、各改良機のスペック、構造上の仕組みと海外特許等が細かに記載されている。運用については空母及び地上からの戦闘の記録、撃墜記録と被弾、各国の戦闘機、爆撃機の性能と活躍、ゼロ戦と他の国産戦闘機(隼、紫電、紫電改など)の生産台数と運用・戦歴の比較、太平洋戦争を通してのゼロ戦の役割、ゼロ戦の機械の信頼性について述べられている。

 ゼロ戦は三菱のほかに中島飛行機(現在の富士重工)でも製作された。中島は零戦の主力エンジンとして採用され続けた安定した「栄エンジン(950馬力)」の製造会社であったが、最新鋭のアメリカ式のオートメーション生産ラインをもった工場を作り、昭和15年~終戦までの三菱の生産数約3800機に対し、それを上回る6500機あまりの生産を行った(一説に合計10445機といわれる)。中島は同時に陸軍機の有名な隼(はやぶさ)を5000機、疾風(はやて)を3000機以上製作しているので、航空機の量産にあたって極めて重要な貢献をしていたことが分かる。戦後、富士重工のスバル等の乗用車が、過酷な寒冷地や悪路に強く、海外でも評価が高いことは、このような歴史からも納得されるのではないか。

 また、ゼロ戦の改良の困難さ、すなわち機銃、防弾を改良すると機体重量が増すが、機体の強度が弱いためエンジンをパワーアップ出来ないという結果的に生じる「性能低下」は、ゼロ戦の最大の特徴である「極限までの軽量化による操作性の機敏さと長大な航続距離をもたせる」という当初設計に起因していた。

 空母と横須賀US_Navy_090610-N-9565-200
 横須賀港のアメリカ軍原子力船空母「ロナルド・レーガン」~「ジョージ・ワシントン」と交代。戦艦大和・武蔵より大型です。2011年の東日本大震災では「トモダチ作戦」に従事してくれた有難い空母です。
 排水量満載 101,429トン/全長1,092 ft (333 m)/全幅252 ft (76.8 m)/機関ウェスティングハウス A4W 原子炉2基/蒸気タービン4基,/最大速力30 ノット以上 (56 km/h)/搭載機 約66機/乗員士官・兵員:3,200名/航空要員:2,480名/wikipediaより

 Washington Square- The Village Stompers- 1963
   
 最近、ウクライナの軍関係者が北朝鮮のミサイルの液体燃料、大陸弾道弾ICBMの技術は旧ソ連軍、ロシア軍の技術だとするコメントがTV報道されました。誰でもそう思うはずです。ソ連は北朝鮮の建国と大きな関わり合いをもち、アメリカと戦後の冷戦を行った超軍事大国ですから、当たり前でしょう。

 モスクワの夜はふけて/アル・カイオラ楽団

 
 航空自衛隊 特別編隊 「ブルー・インパルス」 正式名称;宮城県松島基地 第4航空団に所属する「第11飛行隊」。仙台湾に面し景勝地・松島の東に位置する飛行場は3.11の大津波に被災し、復旧しました。震災直後、長淵 剛さんが自衛隊員を励ますパフォーマンス(基地での弾き語りコンサート)をしてくれました。多感謝!!

 長渕剛 - 航空自衛隊松島基地 隊員激励ライブ_乾杯

 自衛隊の皆様、どうか70余年前の先人の御霊を大切に専守防衛に努めてください。しかし、専守防衛のあり方は、悲しいかな北朝鮮のような国家に関しては、情勢とともに変化せざるをえないのかも知れません。もちろん、多くの日本人は、1964年の東京オリンピック開会式で五輪の輪を描いたブルー・インパルスが、三年後の2020年、再び東京五輪でさらに鮮やかでたくましい飛行機雲を披露してくれることを願っていると思うのですが。

 ひこうき雲 - 荒井由実 2nd Single B (1973)

 今週の終戦の日に、NHKでインパール作戦の特集があり、当時の作戦に従事した元日本軍の生存者のインタビューと現地の参謀に加わった若き少尉の従軍日誌は生々しかった。・・・病死とあるのは銃剣の上に臥した自殺、雨季に入っての撤退と飢餓死、死体からの人肉の切り取り、ジャングルでの獣の餌食、5000人死ねば敵陣をとれると日常的に会話する現地にいた陸軍の参謀たち、戦後20年も生き残りなお自分の作戦をイギリス軍が恐れていたと自慢する作戦司令官。インパール作戦を美化する著作家、ブロガーのNさんという方は日本人に大人気だそうですが、何か根本的に深く間違っていると思われます。

 愛する人に歌わせないで 森山良子 My Memories -Ryoko Moriyama 25Th Anniversary-

 私は30代の時、東南アジアの資源探査(日本政府のODA)に応援に行き、雨季のマレー半島で2~3か月、地質踏査(土壌や川砂を採取し鉱物資源を探す山歩き)をしました。ヒル、トカゲやコブラのいる山野に分け入り、濃い茶色に濁った濁流の川も渡渉しました。平和な状態で食料があり、夕方には出発地点に車が迎えに来るのですが、特に、熱帯の豪雨下で雷の中を金属のハンマーを腰にぶらさげて歩き続けるとき、雲の晴れ間の猛暑下で赤土の道を遠くまで歩く時、雨季の終わりの多量の河川水の渓流に入るとき、けっこう過酷だなと思いました。しかし、これが食料物資の補給のない戦争であれば、生き地獄であることは、想像にかたくない。日本の善良な若者よ、自分の頭で考えなさい。空気など読まないで・・・

 灰田勝彦 - 森の小径 (1940)

 8/18修正追記 (以上)

MW25 映画「この世界の片隅に」心につきささりました


 今話題のアニメ映画「この世界の片隅に」は、片渕須直監督、漫画家こうの史代原作、主演声優 のん(本名:能年玲奈)で、戦時中の広島県呉市(東洋一の軍港、呉海軍工廠のある港街)に嫁いだ「すず」さんとその家族の日常を描いた物語です。

 仙台でも二館でしか上映していないため、週末はさけて、12月1日の会社帰り、夜9時ごろからの上映を見ました。仙台駅東口、100名に満たない一室、ミニシアター。若者を中心に画面の見にくい第一列を除き満席でした。全国では上映後、拍手喝さいが湧き上がったとの報告もありますが、東北人は、仙台の若者もシャイなのか、小さく拍手したのは私とほかのお客さんの二名ほどでした。全員が、制作資金の援助をされたクラウドファンディングの名簿の表示が終わるまで、静かに画面を観て、余韻に浸りました。

 このアニメ映画は、ほのぼのとしたシーンやユーモアにあふれた作品ですが、私には珍しく、翌日、その翌日と、思い出しては号泣したくなるほど、何故か深く心に突き刺さる作品となりました。

  「この世界の片隅に」公式ウェヴサイト

  吉永小百合さん「この世界の片隅に」を語る
 
  #jamtheworld 「この世界の片隅に」 20161213 #jwave

  この世界の片隅でトップ03

 浦野すずさんは、18才で広島から呉にお嫁に来ました。海軍関係に勤める北條周作氏に見初められて・・・

  映画『この世界の片隅に』予告編 シネマトゥデイ

  軍艦と呉この世界の片隅で

 呉は、広島の近郊。三方が山に囲まれた天然の良港で、防御にも適した地形です。国内屈指で東洋一といわれた軍港で、呉海軍工廠がありました。戦艦大和はここで海軍によって建造され、同型艦・武蔵が、大和の設計図を基に長崎港の三菱重工業(株)長崎造船所で作られたのです。建造後、武蔵も呉港を母港とし何度も修理や改造、給油の為に寄港し、大和と武蔵が並び停泊したことがあったようです。長崎への原子爆弾は長崎造船所を狙ったものともいわれ、広島と長崎は確かに深い縁があるものと思われます。

  In This Corner of the World (Trailer)

  なんでもたべねばならぬのじゃ

 野草の数々、大葉、はこべら?「なんでもたべねばならぬのじゃ」・・・母からも聞いた戦時中の日常でした。それでも、すずさんは、えらいです。いつも、楽しく、朗らかにごはん支度をします。戦時中、庶民は心こそ、まけちゃいられません。若奥様、心意気が可愛いですなぁ~。

  楠公めしnon10

 楠正成公のごはん増量作戦、楠公めし(なんこうめし)。のんちゃんの語り口も楽しく、調理法を解説します。ただ、お米をあの手この手でふやかすように増量させますから、おいしく調理するのは難しいのでしょう。誰一人、おいしいと言わないよ~。

  戦時中の元原爆ドーム

 広島市内の旧広島県物産陳列館、きれいですね。現在の原爆ドームです。広島県物産陳列館は、1910年(明治43年)に広島県議会で建設が決定され、5年後の1915年(大正4年)に竣工した、歴史的な大正建築だったんですね。

  絵描きのすずさん

 すずさんは、子供の時から絵が上手。まるで、絵描きです。戦局が悪化する中、軍港の町は何度も空襲を受け、すずさんは大切な可愛いめいを失います。また、自らも大切な右手を失い画が描けなくなるのでした。日本各地にあった米軍機の激しい空襲による一般人の被害の象徴として描かれているのだと思います。

  広島の街

 片渕監督の熱意に影響され、呉市と広島市の方々が、映画つくりに協力しました。かつての街並みとそこにいた家族を、作画に反映させた、細やかな映画つくりが行われました。

  かけがえのない日常 (この世界の片隅に)

  戦い終りて518957_615

  戦い終りて・・・呉の実家に帰る北條周作氏とすずさん、広島から連れてきた女の子・・・

  コトリンゴ /「 悲しくてやりきれない 」

 主演声優、すずさんの声は、のん(本名:能年玲奈)さんです。兵庫県出身の彼女は、御存じのように、東日本大震災後、2013年のNHK連続テレビ小説「あまちゃん」で主演の天野アキを演じ、震災でひどく傷ついた三陸の人々を楽しく笑いで励ましてくれて、同時に全国的にブレークしました。この映画を観たいと思った動機は、彼女を、事務所との関係がこじれて苦労しているここ数年、陰ながら応援してきたことが大きな要因です。しかし、身近なところ、90才になった私の母も三陸海岸の製鉄所のある街でアメリカ軍の艦砲射撃の中、生き延びました。だから、共感しているのでしょうか。

  広島にてのんちゃんと監督

 原爆ドームの見えるテラスから、片渕監督とのんちゃんです。

  舞台挨拶この世界の片隅で001

 舞台挨拶、大きなフリップの「大ヒット上映中」が現実になろうとしています。ブレイクって良いものですね。

 朝日広告この世界の片隅で161112

 おわりに、少々長いですが、今回は珍しく民放のように骨のあるところを見せているNHKによる紹介を二三あげてみます。

  NHK特集ダイジェスト 映画「この世界の片隅に」 こめられた思い

  おはよう日本「この世界の片隅に」特集

 今後、すでに海外での上映が決まっているとのことです。

  In this Corner of the World - Imagine Nation - WORLD TV

続きを読む

MH02.2 吉村昭著「戦艦武蔵」,「空白の戦記」を読んで


 たしかに愛情を添えてはいるが、冷徹なまでに残酷な大東亜戦争の記憶を、綿密な取材で物語る。吉村昭氏の文学は、歴史書でもあります。
 戦艦武蔵の建造中の、情報隠しや厳重な図面管理が生んだ悲劇、また、フィリピンのレイテ沖の激戦で、米軍の多数の航空機の集中攻撃で沈んだ戦艦武蔵。その生存者のその後も追いかけ、日本に帰ることなく他の戦地に配転され陸地戦でなくなった兵士が多いことを淡々と書き記す吉村氏。
 今年もまた、八月、広島・長崎の原爆投下の日と終戦記念日を迎えます。挑発国家・北朝鮮のミサイル攻撃は要注意ですが・・・。(日本のミサイル防衛網は本当に機能しているのでしょうか。)

 日本人なら、皆、あの戦争の史実を学ぶべきでしょう。戦前の日本にとって仮想敵国はアメリカだったこと。米英との中国大陸での利権争いと日中戦争。日本陸軍、その代表的な関東軍の思惑と行動。大東亜戦争に突入した理由(アメリカ側は太平洋戦争と呼ぶ)。
 また、大日本帝国海軍に関しては、日露戦争の日本海海戦の勝利を引きずる大艦巨砲主義。航空機による制空権確保下の艦隊決戦という幻想。真珠湾攻撃と珊瑚海海戦など初期の戦いを除くとガダルカナル、マリアナ、レイテ沖海戦等の連続するいたましい玉砕を生む苦戦と制空権と制海権の相次ぐ後退。不沈艦と呼ばれた世界一の大型戦艦の大和も武蔵も竣工後およそ2~3年で多数の米軍機の魚雷攻撃でなすすべなく沈んだ経緯。数限りなく続く捨て身の特攻機攻撃・・・
 アメリカ軍に沖縄に上陸され、さらにどんなに空襲を受けても、陸軍による本土決戦が合言葉となったわけ。戦争の悲惨さとやめるにやめられない日本人の性質と根本的な考え方。
 昭和の歴史を学ぶことは、日本の、そして周辺諸国との平和を守るうえで、やはり温故知新、誰もがなすべき義務と思われます。

  吉村昭_戦艦武蔵文庫表紙

 (注)戦艦武蔵は、高校時代、1974年頃に読み、最近、再読しました。
    
 大和型戦艦001
 大和型戦艦  建造時、大和(呉海軍工廠)は一号艦、武蔵(三菱・長崎)は二号艦と呼ばれた。
 また、三号艦は横須賀海軍工廠で起工されたがミッドウェイ海戦の惨敗で空母に改装し、呉への回航中、米潜水艦により撃沈。さらに四号艦は呉で起工されたが建造中止となった。

 【戦艦武蔵の諸元】
 ・起工 昭和13年3月29日(三菱重工業・長崎造船所) 第二号艦として
  ちなみに 第一号艦の大和は昭和12年11月4日に起工(呉海軍工廠)
 ・艦の長さ 263m/最大幅 38.9m
 ・排水量; (公試状態)68,200トン/(満載状態)71,000トン
 ・重油満載量 6,300トン,航続距離 (16ノットで)7,200浬(かいり)13,334km
 ・動力 蒸気タービン機関 (当時ディーゼル機関は安定性に欠け断念)
 ・速力 27ノット(時速50km),軸馬力 150,000馬力
 ・主砲 46cm(18インチ)砲さ三連装三基計9門,副砲 15.5cm砲 12門
 ・搭載飛行機 6機、乗員数 2,300名
 ・進水式 昭和15年11月1日 8時55分 (大和 昭和15年8月8日)
 ・太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃) 昭和16年12月8日
 ・この時期に第一号艦、「戦艦大和」が竣工した 昭和16年12月16日
 ・武蔵の艤装完成,海上公試開始  昭和17年6月18日 
 ・竣工引き渡し 昭和17年8月5日 (呉港)
 ・初代艦長 海軍大臣 有馬 馨 
 ・配属 連合艦隊第一艦隊第一戦隊

 艦の大きさは、アメリカ艦船がパナマ運河を通過して太平洋に出るため艦の最大幅が限られており、それより大きな幅、大型艦として計画されたという。

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 昭和17年8月 竣工した頃の戦艦武蔵 (Wikipedia「武蔵(戦艦)」より)
 軍艦行進曲 (Japanese Navy march)

 むさしとやまと2015030900012
 南洋の前線基地「トラック環礁」の武蔵と大和 [1943(昭和18)年5月]

 武蔵は、二号艦で軍司令部の要求により設計変更が多くなされた。また、大型客船を手掛ける民間造船所が建造したため、艦長室など内装が充実。このため、トラック泊地等では旗艦をつとめ、指令長官・山本五十六を迎えていた。

 Yamamoto's_ashes_on_Musash byWiki
(Wikipedia「武蔵(戦艦)」より)
 山本五十六はソロモン・ニューギニア方面の航空機による「い」号作戦の陣頭指揮をとり好結果を残した後、ラバウルから他の前線基地を視察するため飛行艇での移動中、敵戦闘機の攻撃を受け殉職した。その遺骨を横須賀まで運んだのも武蔵だった。

 三菱長崎造船所DSCF7933
 大和型戦艦二号艦「武蔵」を建造した三菱重工業長崎造船所
  (以下、テレビ画面 NHK-BS特集「戦艦武蔵の最後」2017年1月17日より)

 ガントリークレーンDSCF7934
 三菱重工業長崎造船所のガントリークレーン (当時の一部を現在も使用)
 普段は漁具に使われる棕櫚縄で、クレーン全体を覆い機密保持が行われた。

 三菱重工業の海軍艦船や商船の建造実績は十分にあり、巨大戦艦「武蔵」の造船そのものは従来技術で対応できた。ただし、狭い長崎港での機密保持に多大の労力をさき、憲兵ら警備人員が多数投入された。また、一枚の図面を焼却紙類へ故意に投棄した事件で、真面目な若き技術者の人生が大きく狂う悲劇が生まれた。
 
 むさし主砲DSCF7929
 武蔵の主砲 当時世界最大級の46cm砲
 射程距離 41,400m (41.4km),砲弾飛行高度 最高5,000m (5km)
 砲弾重量 1.5トン/個,発射速度 40秒(二分で三発)

 むさし主砲DSCF7930
  武蔵の主砲と周辺状況 、量より質で建造された大型戦艦だった。
 
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  武蔵の主砲発砲時の黒煙の想像図
  (※)最近、遺族の保有する砲撃の写真が公開されている。

 一ノ瀬俊也著戦艦武蔵カバー20160725
 一ノ瀬俊也著「戦艦武蔵」カバー,中公新書,発行20160725

 一ノ瀬氏が上の書で言うように「1941年から45年まで続いた日米戦争は、基本的には島嶼(とうしょ)戦、すなわち広大な海洋上に浮かぶ島々の争奪戦であった。」(p67)
 アメリカ軍の島嶼獲得作戦は、1)圧倒的な航空勢力で制空権を得る。2)空爆や戦艦の主砲で地上施設を破壊する。3)海兵隊や陸軍の部隊が大挙進行し、島を制圧する。この過程で、補給路を絶たれた日本軍部隊は悲しい「玉砕」を繰り返し、後退を続けた。

 日本が第一次大戦の戦勝国側としてドイツから獲得した南洋の海域、島々も、ソロモン諸島のガダルカナル、ラバウル、重要な基地「トラック環礁」、パラオを失い、マリアナ諸島のサイパン、グアムの各島々を占領された今や、フィリピン諸島の東岸、レイテ島に米軍の上陸を許すことになっていた。日本にとってインドネシヤの油田の供給路を維持すするためにも、フィリピン死守は重要な命題であった。このような背景で、今まで多量の重油を消費する大和と武蔵を温存していた日本海軍は、活路を見出すためフィリピン西側のボルネオ島の油田地帯(ブルネイ)から連合艦隊として勇ましく出撃したのだった。 これが有名な「レイテ沖海戦」である。

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 【レイテ沖海戦】 昭和19年10月22日 8時00分 ブルネイ泊地よりレイテ沖をめざし出撃。右端より戦艦長門、武蔵、大和、榛名、金剛、重巡洋艦4隻 (Wikipedia「武蔵(戦艦)」より)

 《軍歌》 軍艦マーチ("Gunkan māchi "~March "Man-of-War"~)

 シブヤン海を行く武蔵
 シブヤン海を行く武蔵 (Wikipedia「武蔵(戦艦)」より)

 レイテ沖海戦の武蔵_攻撃を受ける
 レイテ沖海戦の武蔵_米軍機の激しい攻撃を受ける (Wikipedia「武蔵(戦艦)」より)

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 【レイテ沖海戦】 アメリカ軍飛行部隊による魚雷と爆弾の攻撃をうけ黒煙をあげる「戦艦武蔵」(右)と左旋回する「戦艦大和」
(Wikipedia「武蔵(戦艦)」より)

 武蔵は大和に比べ乗組員の訓練期間が短かい欠点があった。また、敵の空中爆撃に対し大和の副砲をはずして据え付けらた最新の12.7cm連装高角砲(6基)が生産が間に合わないため武蔵には整備できず、防弾のない25ミリ三連装機銃を多数配置してあった(合計119挺)。このため、対空火力が弱く、米軍機が投下する魚雷や爆弾の回避が遅れ被弾を繰り返し、艦首左舷甲板が沈水、ついに注水機能による傾斜復元が出来ない状態に陥り、日没後に沈没した。

 「米軍機の六次にわたる執拗な波状攻撃で多数の魚雷・爆弾に被弾、艦体傾斜、艦首甲板進水、沈没セリ。昭和19年10月24日; 全乗組員2,399名中、駆逐艦による救助・生存者1,376名」(吉村昭)

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 【レイテ沖海戦】 度重なる米軍機の集中攻撃で艦首が進水した「戦艦武蔵」 (Wikipedia「武蔵(戦艦)」より)

 【戦艦武蔵の戦況】  一ノ瀬氏の上記著書から
 昭和19年10月22日 8時00分 ブルネイ泊地よりレイテ沖をめざし出撃
 23日 早朝 旗艦 重巡洋艦「愛宕」、同「麻耶」、アメリカ軍潜水艦により撃沈
  旗艦は「大和」に変更,救助された「麻耶」乗組員は「武蔵」に移乗
 24日 連合艦隊 米対空戦闘
 米機来襲状況(細かな数字は諸説あり)
  第1次 10時00分頃 来襲 17機 ,命中 魚雷 1、爆弾1
  第2次 11時38~45分 来襲 16機,命中 魚雷 3、爆弾2
  第3次 12時17分頃 来襲 13機 ,命中 魚雷 1
  第4次 12時23分頃 来襲 20機 ,命中 魚雷 4、爆弾4
  第5次 13時15分頃 来襲 なし ,命中 なし1
  第6次 14時45分頃 来襲 75機 ,命中 魚雷 11(不発2)、爆弾10

  猪口敏平艦長(大佐、日本海軍屈指の砲術理論の権威)
   19時05分以降 総員退艦命令、遺書を加藤副長に託し艦と共に逝く。
  駆逐艦により生存者救助。敵潜水艦を警戒し、午後11時、捜索打ち切り。

 【戦艦武蔵の生存者たち】

 武蔵の沈没は、まだマニラを日本軍が占領していた時期で、結果的に終戦までの期間が大和の四か月に比べ10か月程度と長かった。このため、海軍は1300名余りの生存者のうち、先に士官を日本に戻した一方、武蔵沈没が知れ渡らないように、生存者の大半をマニラには送還せずマニラ湾の要衝コレヒドール島に上陸させ、仮兵舎に隔離した(加藤部隊とよばれた)。後に、輸送船さんとす丸で台湾へ、改装空母隼鷹(じゅんよう)で内地へ送還を試みたが、敵潜水艦に撃沈され、少数のみが生還した。その他、多くの誇り高き海軍兵は、まともな装備、靴、衣類もない状態で、さらにフィリピン各地の地上戦に投入された。日本軍は味方にも非情過ぎたのだ。戦艦は日本国民にとり、一見、豪華な高揚感をもたらすが、やはりこれが戦争の実態、本性なのである。今の日本人の若者は決して誤らないでいただきたいと強く思います。

 【シブヤン海における戦艦武蔵の捜索】 
         
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 米国ポール・アレン氏らによる撮影 「沈没した武蔵の艦首」 2015年3月

 「戦艦武蔵の最期」VFXで完全再現! NHKスペシャル /NHK

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 シブヤン海の海底に散在する武蔵の設備品(NHK特集「戦艦武蔵の最後」2017年1月より)

 海ゆかば (Umi Yukaba) ~If I go away to the sea~ Japanese military song

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MH02.1 日本人の心について

 

 8月となり、子供たちや学生は夏休みですが、大方の日本人は、お盆休みを除くと、真面目に労働するという勤勉な国民であります。国民皆が認めるように、エネルギー資源や鉱物資源をほとんど持たず、勤勉な労働と科学技術のみが利潤をもたらす小さな島国ですから。

 1930年代から終戦の1945年まで、日本人は日中全面戦争および真珠湾奇襲から大東亜、太平洋戦争終結まで、懸命に生きた時代でした。
 ことに最後の昭和20年、アメリカ軍の猛攻による沖縄の激戦、戦艦大和(すなわち日本海軍)の最後、B29による本土空襲、8月6日の広島および8月9日の長崎の原爆被爆、8月15日の玉音放送と終戦、これが語り継がれる日本人の苦闘の歴史です。

 戦争は、日本国民を苦しめ、隣国・アジアを苦しめた事実と、最近指摘される欧米に植民地化されていたアジア諸国を独立させる勇気をアジアの人々に与え、戦後次々とアジア諸国が独立したという事実の双方があり、おそらくもっと多面的な要因もあるのかもしれません。
 いずれ、ある面のみの偏った評価は、日本人の心に強い屈曲を与え、後の時代に悪影響をもたらしかねないと思うのです。
 決しておごらず、かといって、勇敢にたたかった日本人には、平和なアジア共同体を作り、日本にも安定なエネルギーや資源が確保できるように強力な友好関係を築きたいという要求があったはずです。
 一方、日本や中国の貢献や投資によって、東・東南アジア、インド、トルコなどの西アジア、中南米、アフリカの経済や科学技術力が発達すると、今後、欧州の地盤沈下、アメリカの相対的な力の低下がみられることになるでしょう。この中で、様々な国際間の衝突や多民族国家の内紛が生じると思われ、事実そのような事態に苦しむ国家もあるわけです。

 話はかわりますが、日本人の女性、特に良き妻に「才長けて見目麗しく情けあり」とは、昔からの日本人の理想です。時は現代、日本人の女性はどうでしょうか。今時の人気のアイドル・女優(堀北真希や能年玲奈、AKBなど)、かつての人気アイドル・歌手、三人娘(美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ)、吉永小百合、新・三人娘(小柳ルミ子、天地真理、南沙織)、中三トリオ(森昌子、桜田淳子、山口百恵)、キャンディーズ、ピンク・レディー、夏目雅子、小泉今日子、松田聖子等々・・・皆、実際的に「才長けて見目麗しく情けあり」、賢く、きれいで、やさしく、がんばり屋と思われます。日本人の求めるものは、やや男目線かもしれませんが、上は皇室から下は身内の妻や娘まで、このような片鱗があると思うのは、私だけでしょうか。「カワイイ」という日本的な形容詞をはじめとし、このことは日本の歴史や風土なのでしょうか。

 昨日、ケーブルTVでふと「加藤隼戦闘隊」の映画(カラー版)を観て、ひどく感動しました。隼(はやぶさ)は、海軍のゼロ戦とならび称される陸軍の主力戦闘機でした。この隊を率いた加藤建夫隊長(最終位・陸軍少将)とその部下の活躍は、ゼロ戦や海戦の多少の知識しかなかった私には衝撃でした。このような記録は、現在、学校教育では禁止されておりますが、加藤隊長が戦死した部下や家族、そして家を守る細君をいたわる精神は、やはり、それも、「良き日本人の心」を表していると思うのです。

ああ陸軍隼戦闘隊001
ykazssさん あゝ陸軍 隼戦闘隊

  喧嘩は、その戦いがひどい激戦であっても、また理由のある戦いであっても、勝った側には「あの時のことは忘れましょう。」と言えますが、負けた、辛酸をなめた側には、いつまでも忘れられない苦しみとなって、末代までも続く不の感情となります。あの韓流ブームも日韓ワールドカップ同時開催も、韓国人の本当の気持ちを変えるものではなかったようです。先に述べたように戦争には、日本の立場もあったわけですが、韓国人・朝鮮人民、中国人民の心の深い傷も、末代まで続く苦しみであったと、やはり認識せざるをえません。一方、日本国民、特攻や激戦に逝った日本人、原爆に被ばくし得体のしれない悲惨さに苦しんだ方々も、大変な苦しみだったことには、苦痛として変わりはないと思われます。

 「加藤隼戦闘隊」は、職業軍人(航空学校教官)で人格者の隊長が率いる人間的な集団ですが、インドネシヤのパレンバン油田確保の大活躍など、ご批判もあるでしょうが、日本人として心躍る活躍が描かれています。そして、70年以上前に、このような戦闘をする日本人が、常に専制国家北朝鮮のミサイル発射におびえ、中国や韓国が話し合いよりも準軍事的行動で恒常的に領海侵犯する近年、集団的自衛権の延長で、いつ、自身が隠れもっている「加藤隼戦闘隊」の活躍に心躍る、日本人の心の一面に火がつかないかと、強く心配になります。

Tateo Kato Hayabusa
加藤建夫 隼戦隊長 (撮影1942年)

 加藤隼戦闘隊の隊歌とその飛行の様子です。
 ShVAK20さん 加藤隼戦闘隊-Kato Hayabusa Fighter Wing-
 インドネシアのパレンバン油田の確保には落下傘部隊が活躍しましたが、加藤隼戦闘隊の援護が大きな貢献をしました。
 空の神兵
 次は加藤隊長の部下、檜(ひのき)さんのお話です。空中戦で被弾し片足を失いましたが、意識朦朧とした中、亡き隊長に励まされ生還されたとの話が伝わっています。
 隼を語る/檜與平 エースパイロットの証言

 閑話休題、ここで海軍の方ですが、ゼロ戦で有名なラバウル航空隊の歌をお聴きください。ずいぶん元気な軍歌なので、南洋の戦いが激戦となる前、日本海軍の戦績が良かった初期のものなのでしょうか。
 《軍歌》ラバウル海軍航空隊( Rabaul Naval Air Corps)

 さて、真理さんは、今年、2014年7月30日発売のゴールデン☆アイドルのシングルジャケット集の巻末で、「あの頃はファンの為に生きていました。今は娘もいましてファンの為だけでなく私の為にも生きています。」とおっしゃられています。真理さんは外国人のファンの方とも英語で静かに流暢に会話される才長けた方です。かつて、誰もが目を見張る「麗し」のかわいいアイドルでしたが、その本質は「情けある」心優しき女性であるということでしょう。(私個人は昨年、新宿のスクリーンコンサートで、短くご挨拶し、握手していただいただけですが、それでも、何度も会われたファンの方々の感想が良くわかります。)

 真理さんは、国民的スーパーアイドルの二十代の後、三十代でカメラの前で裸身をさらし、その後もコメディエンヌ的にひょうきん族や他の類似の番組にも出演されました。その中で、あれほど光り輝いた「白雪姫」を捨てざるをえない辛酸をなめました。事務所の方針や経済的な必要で、苦しい選択であったのでしょう。だからこそ、今、カメラの前、メディアの前に進んでは出たがらないと思われます。いつも明るい笑顔の下に、どれだけ、トップアイドルゆえの孤独感、そしてマスコミの有らぬ誹謗、中傷に苦しんだことでしょう。
 真理さんが「今、横浜の陽のあたる素敵なお部屋に住み」、一人娘・真保さんやご友人の来訪がよくあるとの近況を知り、真理さんが好んで歌う「小さな人生」を謳歌されていることに、静かに安堵する喜びを持つのが、真理さんファンの共通した感情ではないでしょうか。

 少し、とりとめのないお話となりましたが、歴史的認識は、嘘も、詭弁も、偏った見方も、いつも生じうることを念頭に置き、語り継ぐことで、致命的な誤りの繰り返しを未然に防ぐ一助になるのではないか。そう想う、真夏の杜の都、日曜の午後でありました。

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Author:hatogairu kouen
明るき癒しの歌声、天性のファルセットを紹介し、悩める日本人を応援します。

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