MS04 パリからの手紙 第4節 デビュー(フィクション)


4.芸能界入りと歌手デビュー

 M子の芸能界入りのきっかけは、素人参加番組「ビューティフル・モーニング」に出演して歌ったことだった。今では珍しい朝ごはんの時間帯にオン・エアーの若者向け番組だった。
 音大付属高校を卒業し、ヤマハ音楽振興会でレッスンに励んでいた1970年(昭和45年)、M子は18才だったが、レコード会社C&Sのディレクターが外見の可愛らしさだけではなく、M子の歌を聴いてスカウトを決めた。

 いつもM子のすることをすべて許してくれた母は、芸能界入りには反対した。しかし、彼女は「芸能界」という未知の世界でがんばってみたい気持ちでいっぱいだった。
 M子は「お母さん、私は自分で自分の道を切り開いてみたいの。1年間だけ試させて」そういって、母を説得した。
 彼女は、勇気を出して「清水の舞台」から飛び降りたのだった。

 レコード会社から大手芸能プロダクションWプロに預けられたM子のデビューは、1971年夏、シャボン玉ホリディーだった。クレージーキャッツやザ・ピーナッツで人気のWプロの看板番組だった。M子はピーナッツの二人に挟まれて、ギターを弾きながら水色の恋を歌った。

 デビュー前年、1970年(昭和45年)は大阪万博が盛況だった。まさに高度成長期で、アメリカ館の月の石をひと目見たさに全国から大勢の日本人が大阪万博の太陽の塔の下に集まった。M子はこのとき、ある電気事業者のパビリオンでコンパニオンをしたことが縁で、1971年、NHKの朝の連続ドラマのオーデションに参加することになった。
 NHKは大阪万博の盛況を受けて、東京オリンピック(戦前に計画されたが、中止され、1964年に開催された)の開催に奮闘した青年国会議員にスポットをあてたドラマを製作しようとし、その妻がヒロインだった。M子は主役には落選したが、愛らしく優しい笑顔と頑張り屋な性格が、プロデューサーに評価され、ヒロインの友人役に選ばれた。この朝ドラは、かつての「お花はん」に匹敵する人気ドラマとなり、M子の知名度も一躍、全国的となった。

 初め、M子のレコード会社では、M子を日本のメリー・ホプキンに、第二の森山良子に育てようという方針だった。このため、スタッフもフォーク関係の人たちで、LP1枚もみんなで、手作りでゆっくり作っていこうと話しあっていた。どちらかといえば地味だけど、実力のある歌手を目指していた。
 ところが、はじめてレコーディングした「白雪姫の恋」が、いきなりヒットチャートの3位。必然的にM子は「白雪姫」と呼ばれ、フォークソングとポップスの二刀流の生活が始まった。デビュー曲以後、シングルは11曲目までオリコン週間ランキングでトップテン入りを果たした。また、オリジナルLPやギフトパックと呼ばれた編集版LPも飛びように売れた。

 全国区の人気のアイドル兼歌手は、後の太田裕美にまさるとも劣らず、とにかく超多忙であった。
 まず、M子は横須賀の母の元を離れ、東京・青山のマンションに移った。
 M子は、デビューしてから1年間は1日も休みなしで、スケジュールは本当に3分きざみ。朝10時に起きると、新聞や雑誌のインタビュー。これが3分間ずつ。午後から夜にかけては歌番組の出演もあり、そのあいだにも、雑誌のインタビューなどがあった。
 雑誌の表紙撮影やレコーディングは夜中から深夜で、仕事が終わるのが朝の5時。そして、次の日はまた、10時起床のため、睡眠時間は3~4時間と殺人的なスケジュールだった。
 M子は、自宅では食事する時間もなく、お茶も沸したこともない程の忙しさで、部屋に帰るとシャワーの後、憩う間もなくベットに倒れ込む毎日だった。当時、全国的に人気のアイドル歌手は、高度成長期の日本全国民の勢いのまま全国的なブームとなり、関連グッズも多く作られ、子供から青年男女までファンの購買意欲を刺激し、年間十数億円に達するビッグ・ビジネスに急成長していった。

 M子は、母親が調理師でもあり食がしっかりした女の子として成長したが、この頃の食事は、レストランなどに行くと目立つため、車の中で打ち合わせや休憩をしてサンドイッチやお弁当を食べていた。ともかく、海外の商社マンがエコノミック・アニマルと呼ばれた時代。大人気のアイドル歌手が、歌のレッスンやレコーディングに時間をかけたいとの希望は、徹底的に無視された悲しくもすさまじい時代であった。

 M子が、帰宅しもっとも楽しみにしていた一番のご馳走は、なんと「うな重」だった(驚くことはない。かの冬ソナの人気で多忙な女優チェ・ジウの大好物は朝鮮人参とも言われている)。そのころM子が住んでいた瀟洒なマンションの前が有名なうなぎ屋だった。たまに、仕事が午後にスタートするときなどには電話で出前を頼んだ。ただ「誰にも絶対に住んでいるところを教えちゃだめだ」と、マネージャーから注意されていた彼女は、出前の人が来てもドア越しに、「そこに置いといてください。下からお金、払います」と言って、ドアの下からお金を出していた。

 たしかに、ものすごい人気の女性タレントが、一人住まいしているマンションを知られることは、危険なことだった。彼女が深夜、あるいは早朝、テレビ局やスタジオから自宅に帰るタクシーは、暴走族のオートバイに追跡されるのが常だったからである。まあ、確かにうなぎ屋の店員さんが暴走族と親しいことは、無きにしもあらざることだったのかも知れない。

 
 メリー・ポプキン 「悲しき天使」

 
 森山良子 「この広い野原いっぱい」 (デビュー50周年は2016年でした)

 森山良子公式ウェブサイト

 
 フォークソングを愛する天地真理が歌う 「この広い野原いっぱい」 

(執筆中)

【お断り】「パリからの手紙~国民的アイドルだった歌手・M子の想い出」(フィクション)について
 ベートーベンをモデルにジャン・クリストフを書いたロマン・ロランにあやかり、天地真理さんの著書やCD付きの自叙伝などを原典に仮想・元国民的スーパーアイドルの回想を、全12節ほどの短編にしています。あくまで、主な個人名、固有名詞は仮想の名前としました。全編、強いて言えばパロディでありますが、悪しからず。

MS03 パリからの手紙 第3節 音楽教育 (フィクション)


3.横浜音楽大学(仮名)付属中学・高校の頃

 M子がピアノを習い始めた頃は小学校2年生で、横須賀港の見える住宅地の一角に住んでいた。ピアノは横浜音楽大学(仮名)に通う女子大生のO先生に習っていた。先生の家は京浜急行線の汐入駅の近くだった。M子は几帳面な子供で、いつもレッスン時間ちょうどに先生の家の玄関を開けて入った。
 先生の家のレッスン室にはグランドビアノがあって、テーブルの上にはいつもお菓子が置いてあった。また、道を挟んで鯛焼き屋があって、M子はレッスンが終わると「ア~終わった!」と言っては、お小遣いで鯛焼きを買って食べながら帰えった。M子は、通りすがりの誰もが振り返る、瞳が大きく、歩き方の可愛い女の子であったが、食がしっかりしていて、健康的な児童であった。

 M子の自宅には、ドイツのライセンスで国内の楽器製造会社が製作した上質のアップライトピアノがあって、いつでもしっかり練習してから先生のレッスンに通っていた。このピアノは母が、運よく仕事関係のお客さんを通して、ローン(当時は月賦といった)で購入したものだった。当時の親には、テレビも高価だったが、より高価な品は、思い切った買い物であった。しかし、仕事で子供に十分に寄り添えないため、清水の舞台から飛び降りるような強い気持ちで愛情を注ぎ込んで購入したのだった。「清水の舞台から飛び降りる」、これはM子のその後のけっして「小さくない人生」で、キーワードのように何度も現れてくるのだった。

  【演奏動画】中古ピアノ クロイツェル KE600 グランドギャラリー

  横須賀市
  横須賀港と東京湾

 M子のピアノは続けていくうちに段々と上手くなっていき、途中で投げ出した友達の女の子にずいぶん羨ましがられた。先生もM子が上達していくことを喜び、いつしか先生がM子の家へ遊びに来るようになった。先生はとても美人で、M子の母に恋愛の相談などしていた。
 M子は、横須賀市民会館でO先生門下生の発表会があったとき、小学校5年であったが、演奏順は最後で、トリを演じた。
 その日、M子は朝に美容院に行って髪をアップにしてもらい、洋服はレモン色のスカートスーツを着た。弾いた作品はブルグミューラ作曲「アラベスク」だった。M子の母が客席で心配そうに観ていたが、M子の演奏はあまり緊張もせず堂々としていた。
 M子は、先生の友人が教えるピアノ教室の発表会にも特別参加することがあったが、その時もトリで演奏した。彼女は、一瞬シーンと静まる会場で、最初、指を鍵盤に触れる瞬間と、曲に没入して弾き終える瞬間がたまらなく好きだった。

 その後、先生に彼女の通う横浜音楽大学の付属中学への入学を勧められ、先生ご自身が習っていた大先生KG氏のレッスンを受けるため横浜市内に通った。
 横浜での受験日当日はお正月が過ぎた1月中旬、とても寒く、教室にはたくさんの小学生と親がいた。部屋には円筒形の石油ストーブが1台だけあった。M子の母はその教室で愛する娘の受験が終わるまで、祈りながらじっと待っていた。M子のビアノの実技試験はたゆまない普段の練習のおかげで、首尾よく行った。
 M子は母親の影響で言葉使いがはっきりしていて、やさしく丁寧だったので、親子での面接は、高い評価点が得られた。ただ、音楽学校では本人の音楽の才能と親子の性格や経済事情が重要な評価項目だとは思いもよらない小学六年生は、午後に行われた国語や算数など学科試験の出来が振るわず、そのことだけを心配して、帰りの電車で、母の腕にしがみついて涙ぐんでいた。

 相模原湾の湘南も近い横須賀。二月なかば、もう石畳をゆっくり散歩したくなるような温かい春が来た。M子は合格発表を母と一緒に見に行った。
 M子は、到着するとすぐに合格者掲示板に自分の名前を見つけた。彼女は、見事に、横浜音楽大学の附属中学に入学する夢がかなったのだ。さくらが満開、大喜びの母は、わが子に新宿伊勢丹で買った桜色の洋服を着せ、顧客の経営する写真スタジオで記念写真をとった。

 音大付属中学のM子は、毎日、青いラインの入ったセーラー服を着て、海を見ながら電車で片道二時間の通学をした。横浜の海の見える公園は学校と隣接していて、入港する大型の外国船、特にギリシャ等のヨーロッパ行きかと想像させる白い客船を見るのが好きだった。彼女は、1964年(昭和39年)、東京オリンピックが開催された首都圏の明るい雰囲気に内心、うきうきしていた。
 彼女は付属中学の三年間は「ピアノ科」を専攻し、彼女の上達した演奏は卒業記念にレコードになった。このレコードのピアノ演奏は見事な出来だったが、それゆえ、後年、有名な国民的アイドルになった時、その外見的な美しさからか、この演奏が自ら一人で弾いていることを信じてくれる人は少なかった。一方で、彼女は手のひらが小さく、高音部を弾くためにいつもめいっぱい指を広げ無理をしていた。

 付属高校に進学した1968~1969年(昭和43~44年)、いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」が流行った。ご当地の横浜だけではなく、日本中に流行した。歌謡曲、歌、歌・・・彼女はおもいきって、清水の舞台から飛び降りるように「声楽科」に編入した。彼女は通常の話声は女の子らしい明るい声だったが、何故か歌うとアルトかメゾソプラノが楽に出せる音域だった。彼女は、シューベルト作曲の「魔王」や「鱒」の得意なフィッシャー・ディースカウ(Dietrich Fischer-Dieskau)にはなりたくなかったし、モーツアルト作曲のオペラ「魔笛」の「夜の女王」でもなかったので、クラシックの多くの声楽家が行うファルセット、ベルカントで高音を歌うことを学んでいった。



いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」1969、レコード大賞作曲賞


いしだあゆみ「美しい別れ」紅白歌合戦 1974年
M子も歌手として同じステージに。夢のような二十代。


~横浜港~恋人たちの港/天地真理 (1974年2月)


(つづく)

【お断り】「パリからの手紙~国民的アイドルだった歌手・M子の想い出」(フィクション)について
 ベートーベンをモデルにジャン・クリストフを書いたロマン・ロランにあやかり、天地真理さんの著書やCD付きの自叙伝などを原典に仮想・元国民的スーパーアイドルの回想を、全12節ほどの短編にしています。あくまで、主な個人名、固有名詞は仮想の名前としました。全編、強いて言えばパロディでありますが、悪しからず。(ハト)

MS02 パリからの手紙 第2節 生い立ち (フィクション)


【パリからの手紙~国民的アイドルだった歌手・M子の想い出(フィクション)】
 ベートーベンをモデルにジャン・クリストフを書いたロマン・ロランにあやかり、私もチョイ真似で、天地真理さんの著書やCD付きの自叙伝などを原典に仮想・元国民的スーパーアイドルの回想を、全12節ほどの短編にしています。今回もパロディで終わる可能性もありますが、悪しからず~

2. M子の生い立ち

 昔、「カナダからの手紙」という平尾先生と畑中洋子ちゃんのデュエットが流行りましたけど、今、私はパリ郊外の自宅から、ひとり娘のあなたあてに、この手紙を書いています。
 読む人のあてのない手紙じゃないし、にぎやかな銀座の街から一人ぼっちが寂しくて書いている手紙でもありません(笑)。だから、気楽に読んでほしいのです。もう私も60代後半に入って、今のうちに、波乱万丈の私の半生、小さな人生ですが、想い出しつつ話しておきたいと思います。

 お母さんは、昭和26年11月5日、北海道の北の盆地、冬の寒さ、雪の結晶で有名な旭川で生まれました。お祖母ちゃんは戦時中、現在のロシア国サハリン、当時、樺太(カラフト)とよばれた北の島の唯一の市、豊原市(現在のユジノサハリンスク)で暮らしていました。大祖父ちゃんは軍の物資を取り扱う軍属で、一家はその引揚家族だった。
 私が生まれた年は、あの戦争で敗れた日本が国際社会に復帰したサンフランシスコ条約を吉田茂首相が締結した年。激しく悲劇的な沖縄戦や東京や日本各地の空襲があり、広島・長崎に原子爆弾が投下された昭和20年から、わずか6年。まだ、戦後の混乱があちこちにあった時代です。

 直ぐに札幌に引っ越したので、最初の記憶は札幌での生活。子供心にも北海道はずいぶん寒かったけど、部屋の中は煙突ストーブで温かいのよ。当時は街も小さくて、身近な郊外に広い緑の草原、牛の牧場、街中の銀世界、とても空気が澄んでて、おいしい食べ物ものもたくさんあったわ。

 私の母、あなたのお祖母ちゃんは、早くに離婚していました。理由はくわしくは知らないけど、お祖父ちゃんは、ゼロ戦や紫電改の戦闘機乗りだったと聞いたわ。終戦直後まで、横須賀の海軍基地にいて本土防衛にあたった人で、幸運にも生き残った有能なパイロット。その道の方々には撃墜王として知られた人で、空襲でよく飛んできたアメリカのB29を撃墜したこともあるそうよ。でも、終戦後、普通の市民生活は出来なかった人。素敵な男性だったから御祖母ちゃんが気に入ったのでしょうが、ともかく、麻雀や競馬、賭け事が大好きで、すすきの界隈に徘徊し、お家にあまり帰ってこなかったそうよ。女の人がいたのよね。
 戦後の昭和20年代、半ばのこと。大陸からの引揚者や復員の兵隊さんが舞鶴港や小樽港に着いた、そう「岸壁の母」がいた時代よね。平成の時代に生きる若者のあなたには、想像しにくい遠い遠い時代です。

 その後、私たち一家は北海道から、米軍の基地や自衛隊のある港町、神奈川県横須賀に移住しました。
 お祖母ちゃんは横須賀市の小中学校の給食のおばさんをやりながら私を育ててくれたのよ。そして、そのあいだ、調理師の免許を取り、給食係り主任を務めながら10年計画でコツコツとお金を貯めました。
 本当に頑張り屋の私のお母さん。その貯めたお金で市内に土地を買い、さらに借金して、昭和43年、私が17才のとき、自衛隊や一般の社会人向けの給食センターを作って経営を始めました。偉い人でしょ、私、今でもお母さんのこと大好きなのよ。夢に出てきてくれるわ。お祖母ちゃんに可愛がられた、あなたもそうでしょ。



井上陽水/少年時代


(来月につづく)

MS01 パリからの手紙 第1節 あいさつ (フィクション)


 パリからの手紙~国民的アイドルだった歌手・M子の想い出(全編フィクション)

~ロマン・ロランはベートーベンをモデルにジャン・クリストフを書いたので、私もちょっと真似てみたいと思います。天地真理さんの著書「スリムになるってステキなことネ」や新ゴールデンベストCD付きの自叙伝などを原典に仮想・元国民的アイドルの回想を、全12節ほどの短編としたいと思います。パロディで終わる可能性もありますが、いかがでしょうか・・・~

1. あいさつ

 2016年の夏、私は歌手デビュー45周年の記念リサイタルで、東京のH公会堂のステージに上がりました。そうねぇ、あの頃は日本が高度成長期まっただ中で活気のあった時代、1971年の7月1日、私は、白いギターを弾き語りして「白雪姫の恋」という曲で歌手デビューしたのでした。この曲のイメージで私は「白雪姫」のニックネームで呼ばれた。今でも恥ずかしいけど、正直、とてもうれしかったわ。あの頃は、未来に向けて夢がいっぱいに膨らんでいたのよ・・・

 あれから45年、私も、私の周りの隣人も、大きく変わりました。デビュー時所属していた大手プロダクションのW社長も、当時共演した人気コメディアングループのお仲間も多くの方々が既に亡くなっていますから。クレージードッグの皆さん、南野伸介さん、いかりや助三郎さん・・・

 私、しばらく歌手は休業し、今はパリ市内、パリ大学の芸術学科教授(浮世絵が専門)の妻として、創作アーチストを名のっています。が、デビュー45周年、ここ数か月、パリで知人を頼ってボイストレーニングを行い、一時帰国して、東京でデビュー曲や往年のヒット曲を数曲、皆さんの前で歌いました。とても楽しかったわ。

 都内に住む一人娘の一家(娘Aちゃんご夫婦と可愛い二人の孫ちゃん)も駆け付けてくれました。もちろん当時のプロダクションや音楽出版社、レコードレーベルのなつかしい関係者から大きな花束もありました。また、大好きな友達の歌手・田上ヒロ子ちゃんからのビデオメッセージが会場内の大きなスクリーンに映されたわ。うれしかった。
 また、現在、日本で私が所属する事務所のマネージャーSさんとAちゃんが代表となっているファンクラブの方々が、準備の大半をされていたので、一緒に帰国した夫とともに、いつもながら、とても感謝いたしました。

 かつての親衛隊のみんなも駆け付けてくれました。昔はちょっと「私の美声、よく聴こえないじゃない!」とか「また歌詞を間違えたなんて言ってきて、超忙しいんだから当たり前でしょ!少しは私を可愛そうだって心配してよ!」なんて思っていましたが、どうしてどうして、変わらない熱い大声援ってありがたいものですね。

 1972年、H公会堂はデビュー後、二回目のリサイタルでした。一回目は青山のホールでミニコンサートに二千人、二回目のこの時は若者を中心に親子さんも含めて五千人が集まりました。あのときもうれしくて、白いステージドレスで、デビュー曲や「恋は水色」など当時流行のフレンチ・ポップスを歌ったわ。

 東京オリンピックの年、1964年(昭和39年)、フランスのシルヴィ・バルタンに始まった「アイドルを探せ」(有名な映画)のムーブメントは、5年を過ぎて、ついに日本にも訪れていたのです。




シルヴィ・ヴァルタン「アイドルを探せ」1965年ライヴ/
LA PLUS BELLE POUR ALLER DANSER la légende
de SYLVIE VARTAN LIVE 1965

Sylvie Vartan  La plus belle pour aller danser (1964)

 この動画は、シルヴィ・ヴァルタンが主演した1964年映画「アイドルを探せ」の翌年のライブのようですが、日本人向けに日本語訳がついています。歌詞は、最初、日本語訳を見ててよくわからなかった。「今夜、踊りにいくため一番きれいに」を繰り返すでしょ。でも、何度も聴いてて分かったわ。

 いつも行くお店のダンスパーティーで、彼に狙いを定めて、取り巻く女性たちを退け、自分でひと針ひと針縫ったお気に入りのドレスを身にまとい、自分だけに愛の言葉をささやいてもらい、自慢のドレスも美しいブロンドもくしゃくしゃになるまで激しく抱擁してもらいたい・・・。
 すなわち、受け身の女性ではなく、恋にも積極的に自分の思いをとげようとする、そんな新しい時代の能動的な女性でありたいとする、そう、決意を表す、カッコいい若き女性の歌だったのね。

 1964年だから、第二次世界大戦終結から19年。フランス国民が、ヨーロッパが熱狂したアイドル文化。観衆の地鳴りのような拍手、若い女の子の悲鳴、男声の指笛、凄い声援ね。
 私のアイドル時代もそうだったわ。私は国民的な人気と共に、レコード、TV、映画、雑誌、ブロマイド、グッズ、文具、子供用自転車、飛ぶように売れて大きなビジネスに急成長していった。この大きな経済効果が「国民的スーパーアイドル」といわれる理由の一つでした。ただ、アイドル後、その反動は、大きかった。これについては、後ほど語ってみることにしましょう。


 (来月につづく)
プロフィール

hatogairu kouen

Author:hatogairu kouen
明るき癒しの歌声、天性のファルセットを紹介し、悩める日本人を応援します。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
ようこそ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR