MS02 パリからの手紙 第2節 (フィクション)


【パリからの手紙~国民的アイドルだった歌手・M子の想い出(フィクション)】
 ロマン・ロランはベートーベンをモデルにジャン・クリストフを書いたので、私もちょっと真似て、天地真理さんの著書やCD付きの自叙伝などを原典に仮想・元国民的アイドルの回想を、全12節ほどの短編にしています。今回もパロディで終わる可能性もあります。悪しからず~

2. M子の生い立ち

 昔、「カナダからの手紙」という平尾先生と畑中洋子ちゃんのデュエットが流行りましたけど、今、私はパリ郊外の自宅から、ひとり娘のあなたあてに、この手紙を書いています。
 読む人のあてのない手紙じゃないし、にぎやかな銀座の街から一人ぼっちが寂しくて書いている手紙でもありません(笑)。だから、気楽に読んでほしいのです。もう私も60代後半に入って、今のうちに、波乱万丈の私の半生、小さな人生ですが、想い出しつつ話しておきたいと思います。

 お母さんは、昭和26年11月5日、北海道の北の盆地、冬の寒さ、スノーダストで有名な旭川で生まれました。お祖母ちゃんは戦時中、現在のロシア国サハリン、当時、樺太と読んだ北の島の唯一の市、豊原市(現在のユジノサハリンスク)で暮らしていました。一家はその引揚家族だった。
 私が生まれた年は、あの戦争で敗れた日本が国際社会に復帰したサンフランシスコ条約を吉田茂首相が締結した年。激しく悲劇的な沖縄戦や東京や日本各地の空襲があり、広島・長崎に原子爆弾が投下された昭和20年から、わずか6年。まだ、戦後の混乱があちこちにあった時代です。

 直ぐに札幌に引っ越したので、最初の記憶は札幌での生活。もの心着いたときから母ひとり、子ひとりでした。北海道は寒かったけど、部屋の中は煙突ストーブで温かいのよ。当時は街も小さくて、身近な郊外に広い緑の草原、牛の牧場、街中の銀世界、とても空気が澄んでて、おいしい食べ物ものもたくさんあったわ。

 私の母、あなたのお祖母ちゃんは、早くに離婚していました。理由はくわしくは知らないけど、お祖父ちゃんは、ゼロ戦や紫電改の戦闘機乗りだったと聞いたわ。終戦直後まで、横須賀の海軍基地にいて本土防衛にあたった人で、幸運にも生き残った有能なパイロット。その道の方々には撃墜王として知られた人で、空襲でよく飛んできたアメリカのB29を撃墜したこともあるそうよ。でも、終戦後、普通の市民生活は出来なかった人。素敵な男性だったから御祖母ちゃんが気に入ったのでしょうが、ともかく、麻雀や競馬、賭け事が大好きで、すすきの界隈に徘徊し、お家にあまり帰ってこなかったそうよ。女の人がいたのよね。
 戦後の昭和20年代、半ばのこと。大陸からの引揚者や復員の兵隊さんが舞鶴港や小樽港に着いた、そう「岸壁の母」がいた時代よね。平成の時代に生きる若者のあなたには、想像しにくい遠い遠い時代です。

 その後、私たち一家は北海道から、米軍の基地や自衛隊のある港町、神奈川県横須賀に移住しました。
 お祖母ちゃんは横須賀市の小中学校の給食のおばさんをやりながら私を育ててくれたのよ。そして、そのあいだ、調理師の免許を取り、給食係り主任を務めながら10年計画でコツコツとお金を貯めました。
 本当に頑張り屋の私のお母さん。その貯めたお金で市内に土地を買い、さらに借金して、昭和43年、私が17才のとき、自衛隊や一般の社会人向けの給食センターを作って経営を始めました。偉い人でしょ、私、今でもお母さんのこと大好きなのよ。夢に出てきてくれるわ。お祖母ちゃんに可愛がられた、あなたもそうでしょ。

  横須賀海軍カレーおもて



(来月につづく)

MS01 パリからの手紙 第1節 (フィクション)


 パリからの手紙~国民的アイドルだった歌手・M子の想い出(全編フィクション)

~ロマン・ロランはベートーベンをモデルにジャン・クリストフを書いたので、私もちょっと真似てみたいと思います。天地真理さんの著書「スリムになるってステキなことネ」や新ゴールデンベストCD付きの自叙伝などを原典に仮想・元国民的アイドルの回想を、全12節ほどの短編としたいと思います。パロディで終わる可能性もありますが、いかがでしょうか・・・~

1. はじめに

 2016年の夏、私は歌手デビュー45周年の記念リサイタルで、東京のH公会堂のステージに上がりました。そうねぇ、あの頃は日本が高度成長期まっただ中で活気のあった時代、1971年の7月1日、私は、白いギターを弾き語りして「白雪姫の恋」という曲で歌手デビューしたのでした。この曲のイメージで私は「白雪姫」のニックネームで呼ばれた。今でも恥ずかしいけど、正直、とてもうれしかったわ。あの頃は、未来に向けて夢がいっぱいに膨らんでいたのよ・・・

 あれから45年、私も、私の周りの隣人も、大きく変わりました。デビュー時所属していた大手プロダクションのW社長も、当時共演した人気コメディアングループのお仲間も多くの方々が既に亡くなっていますから。クレージードッグの皆さん、南野伸介さん、いかりや助三郎さん・・・

 私、しばらく歌手は休業し、今はパリ市内、パリ大学の芸術学科教授(浮世絵が専門)の妻として、創作アーチストを名のっています。が、デビュー45周年、ここ数か月、パリで知人を頼ってボイストレーニングを行い、一時帰国して、東京でデビュー曲や往年のヒット曲を数曲、皆さんの前で歌いました。とても楽しかったわ。

 都内に住む一人娘の一家(娘Aちゃんご夫婦と可愛い二人の孫ちゃん)も駆け付けてくれました。もちろん当時のプロダクションや音楽出版社、レコードレーベルのなつかしい関係者から大きな花束もありました。また、大好きな友達の歌手・田上ヒロ子ちゃんからのビデオメッセージが会場内の大きなスクリーンに映されたわ。うれしかった。
 また、現在、日本で私が所属する事務所のマネージャーSさんとAちゃんが代表となっているファンクラブの方々が、準備の大半をされていたので、一緒に帰国した夫とともに、いつもながら、とても感謝いたしました。

 かつての親衛隊のみんなも駆け付けてくれました。昔はちょっと「私の美声、よく聴こえないじゃない!」とか「また歌詞を間違えたなんて言ってきて、超忙しいんだから当たり前でしょ!少しは私を可愛そうだって心配してよ!」なんて思っていましたが、どうしてどうして、変わらない熱い大声援ってありがたいものですね。

 1972年、H公会堂はデビュー後、二回目のリサイタルでした。一回目は青山のホールでミニコンサートに二千人、二回目のこの時は若者を中心に親子さんも含めて五千人が集まりました。あのときもうれしくて、白いステージドレスで、デビュー曲や「恋は水色」など当時流行のフレンチ・ポップスを歌ったわ。

 東京オリンピックの年、1964年(昭和39年)、フランスのシルヴィ・バルタンに始まった「アイドルを探せ」(有名な映画)のムーブメントは、5年を過ぎて、ついに日本にも訪れていたのです。




シルヴィ・ヴァルタン「アイドルを探せ」1965年ライヴ/
LA PLUS BELLE POUR ALLER DANSER la légende
de SYLVIE VARTAN LIVE 1965

Sylvie Vartan  La plus belle pour aller danser (1964)

 この動画は、シルヴィ・ヴァルタンが主演した1964年映画「アイドルを探せ」の翌年のライブのようですが、日本人向けに日本語訳がついています。歌詞は、最初、日本語訳を見ててよくわからなかった。「今夜、踊りにいくため一番きれいに」を繰り返すでしょ。でも、何度も聴いてて分かったわ。

 いつも行くお店のダンスパーティーで、彼に狙いを定めて、取り巻く女性たちを退け、自分でひと針ひと針縫ったお気に入りのドレスを身にまとい、自分だけに愛の言葉をささやいてもらい、自慢のドレスも美しいブロンドもくしゃくしゃになるまで激しく抱擁してもらいたい・・・。
 すなわち、受け身の女性ではなく、恋にも積極的に自分の思いをとげようとする、そんな新しい時代の能動的な女性でありたいとする、そう、決意を表す、カッコいい若き女性の歌だったのね。

 1964年だから、第二次世界大戦終結から19年。フランス国民が、ヨーロッパが熱狂したアイドル文化。観衆の地鳴りのような拍手、若い女の子の悲鳴、男声の指笛、凄い声援ね。
 私のアイドル時代もそうだったわ。私は国民的な人気と共に、レコード、TV、映画、雑誌、ブロマイド、グッズ、文具、子供用自転車、飛ぶように売れて大きなビジネスに急成長していった。この大きな経済効果が「国民的スーパーアイドル」といわれる理由の一つでした。ただ、アイドル後、その反動は、大きかった。これについては、後ほど語ってみることにしましょう。


 来月につづく
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Author:hatogairu kouen
明るき癒しの歌声、天性のファルセットを紹介し、悩める日本人を応援します。

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