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MH18 沢木耕太郎が「深夜特急」の一人旅をした1970年代


 沢木耕太郎氏は横浜国立大学の文系を卒業後、ノンフィクションの記事を書く仕事をはじめ、26才の時、印税を基に、日本を飛び出し、香港を出発点とし、一部飛行機を使うものの大方はその国の大衆が利用するローカルバスを乗り継ぎ、タイ、マレーシア、シンガポール、カルカッタから始まるインド、西アジア諸国、トルコ国イスタンブール、ヨーロッパ・ギリシャ〜イタリア〜ポルトガル〜ロンドンとお金をかけないで一人旅をする、いわゆるバックパッカーのスリリングな旅行を行いました。

 沢木耕太郎氏は1973年9月、文芸春秋から「若き実力者たち」という、ノンフィクションを出版します。この印税と有志のカンパを軍資金に、1974年3月から1975年4月ごろにかけて、約一年の海外の貧乏旅行に出るのでした。

 天地真理さんの冠番組、真理ちゃんシリーズの最後の番組「はばたけ!真理ちゃん」は1975年3月27日が最終回。収録が終わって、すぐさま、1975年2月3日〜3月4日、単身でヨーロッパ旅行に行かれた天地真理さん。このとき、偶然にも沢木氏もヨーロッパを旅行中だったということが分かります。

 その後、日本で若者の「海外一人旅のバイブル」と言われる沢木氏の代表作、旅行記「深夜特急」を出版。沢木氏は帰りのパリ発のアエロフロート機の空席待ちをしている際、日本人の美少女と書いていますが、今は亡き藤圭子さんに遭遇していました。(深夜特急ノート「旅する力」 第三章 旅を生きる オルリー空港では私はほとんどギャンブルをしていた,2008.11)

 沢木氏は、今では社会的事件や作家やスポーツ選手のルポルタージュが主流の硬派ですが、駆け出しのころTBS調査情報編集部に出入りしていて、最近の歌謡曲について「いま、歌はあるか」というルポを書いていた過去がありました。このルポはなかなか手に入りません。おそらく真理さんのデビュー前の歌謡界のお話だと思われますが、藤圭子さんをよくご存じだったのではないでしょうか。



NHK紅白歌合戦 藤圭子/さすらい(1975年)



藤圭子/シングル第二弾「女のブルース」

藤圭子デビュー曲/新宿の女



藤圭子/圭子の夢は夜ひらく(1970)

藤圭子 圭子の夢は夜ひらく 1970年 紅白出場



藤圭子 柳ヶ瀬ブルース /1970年3月 アルバム「新宿の女」収録曲
画像は「新宿25時間立体キャンペーン」における翌日
早朝の「くたびれた?」圭子さん。(UP主コメント)


 1970年代初頭、円が次第に強くなり、円高、変動相場制に移行しました。日本人の海外旅行はもはや稀ではない豊かな時代に入って来たのでした。

深夜特急文庫インドネパール

何度読んだかこの新潮文庫全6巻。
特にアジアの旅はおもしろい。


 沢木耕太郎氏は28歳の藤圭子さんが歌手引退を決めた直後に、彼女にロングインタビューをしていて、その原稿の出版を長く封印していましたが、藤圭子さんが亡くなった後に、娘さんのために公に出版した「流星ひとつ」があることを、遅ればせながら最近知りました。

 沢木耕太郎 「流星ひとつ」 書評 行間に思い広がる、人間・藤圭子の姿

 【評者: 角幡唯介 / 朝⽇新聞掲載:2013年11月03日】
 先日自殺した藤圭子。本書は作家の沢木耕太郎氏がかなり前に、彼女に対して行ったインタビューをもとに書かれた作品だ。
 ことの起こりは34年前。当時、人気の頂点を極めた歌手の藤圭子が28歳の若さで突如引退を表明。沢木氏はその真相を聞き出すため、ホテルニューオータニのバーで彼女にインタビューを試みる。まもなく原稿は書き上げられ、公刊の手筈(てはず)も整ったが、しかし沢木氏は直前になってこの作品を世に出さずに封印したという。・・・

 「流星ひとつ」、手に入れば、読み通し、ちょっとコメントしてみたい・・・

(執筆中)

MW43 藤圭子さんの明るき歌唱について


 今、日本のみならず、世界は、中国・武漢市から始まった新型コロナウィルス肺炎の感染で、大きなダメージを受けています。全世界的な感染をパンデミックと呼ぶそうですが、かつて蔓延した中国起源のSARDS(重症急性呼吸器症候群)の再来で、かつ大規模な感染となっています。手洗い、マスク、外出抑制を国や都道府県の長から、お願いが繰り返されています。今晩、東京圏、大阪兵庫、福岡に緊急事態宣言が出されるとのことで、感染症封じ込めの正念場を迎えています。2月の中国人の春節の旅行の受け入れをした日本、こんなことになろうとは夢にも思わなかったはずです。
 小生の仕事は社内ネットワーク、社内の書籍やデータ、CADや様々な社内ネットワークアプリの必要な体制のため自宅でのテレワークができませんが、満員のバスと地下鉄の通勤に時差出勤で対策しています。さらに、この数日は3月の追い込みの疲労で体調を崩し、通院とスーパーなどでちょっと買い物をするだけで家に閉じこもっています。この機に、今公開の「星屑の町」でのんちゃんが藤圭子さんの「銀座の女」を歌った影響で、Youtubeで彼女の様々な歌を聴いて、初めて知ることも多く、いたく感心しましたので、少し記事にしてみました。

 藤圭子といえば演歌歌手、有名な作家によって怨歌(えんか)とも呼ばれました。
 しかし、当人(本名 旧姓・阿部純子)は、1951年7月5日、岩手県の一関市で生まれ、北海道旭川や岩見沢にゆかりのある旅回りの浪曲師の子という生い立ちに対し、デビューから間もないころ、インタビューでは、「個人的な怒りや悲しみもなく、周りの人たちが怒っていればそのような気持ちになり、みんながうれしければ楽しくなるという性格。歌うことは好きだし、歌が遠のいていったら自分で追いかけると思う。好きなことは、家でゴロゴロ、本を読んでトマトをかじっていることかな。」と話していました。

 藤圭子さんは、東日本大震災後になりますが、今から七年前の2013年8月22日、東京都新宿区のマンションの前で倒れているのが発見され、新宿警察署によって飛び降り自殺を図ったと断定されたとのこと。享年62歳。この直後、元夫・宇多田氏や娘の歌手・宇多田ヒカルは、藤圭子さんが1988年頃から精神疾患を患っていたことを公表したのでした。
 藤圭子さんは1979年にいったん引退し、アメリカに渡ります。その後、再婚し、日本で歌手活動を再開してたびたび資金を調達しては、アメリカにいる愛娘・光ちゃんの歌手デビューのために尽力したといわれています。実力派の演歌歌手として北島三郎が一目を置く彼女、紅白出場が1970年から1976年の5回だけとはちょっと意外です。
(ソースはWikipediaより)



NHK紅白歌合戦 藤圭子♥京都から博多まで~さすらい~はしご酒



藤圭子/追悼 「みだれ髪」 楽しそうに踊りを付けて



藤圭子♥人生一路 はっちゃける圭子さん

 藤圭子さんには、デビュー曲「銀座の女」、名前を知らした第二弾「女のブルース」、人気を決定した「圭子の夢は夜開く」の薄幸の少女、女性のイメージが強いのですが、デビュー前に錦糸町や浅草界隈で親同伴で流しをしていたころから、北島三郎さんの歌のような明るい威勢の良い演歌も得意でしたし、浪曲師の両親の影響で忠臣蔵など見事な浪曲音源を残しています。


歌謡浪曲/刃傷松の廊下★藤 圭子


 また、つぎにあげる叙情豊かな旅を思わせる名曲も、感情豊かに歌っていたのでした。


藤圭子/ゴンドラの唄


藤圭子/琵琶湖周航の歌


藤圭子/知床旅情

知床旅情ジャケット


 藤圭子さんの娘さんも十代から大ヒットを飛ばし、人気を誇っています。純子さんの努力が実を結びました。誇らしいですね、お母さん。

 最後に、TBSの秘蔵映像でみる藤圭子さんの波乱の人生が特集されていましたので、リンクしておきます。1時間半の長い番組ですが、お時間のある方はご参考ください。
 藤圭子 秘蔵映像 名曲秘話と波瀾の人生

 この機に、次の古い記事で、藤圭子さんのデビューから数年の曲のリンクを張りました。よろしかったら、お楽しみください。
 MH18 沢木耕太郎が「深夜特急」の一人旅をした1970年代


 話は変わりますが、小生が震災後、長らく楽しませてもらった天地真理さんの笑顔と歌声、先月からCSの衛星劇場で、冠番組第1シリーズが毎週月曜日の夜に放送されています。遅ればせながら、今月から見させていただきました。当時、わたくしは中~高校生で、四人兄弟の三番目、チャンネル権は無く、地方でもTBS系局があったのに、初めて見る番組です。誰かが言っていましたが、兄弟で同時刻、もう一つあった日テレ系の地方局でタイムショックなどの別の番組を見ていた事実はやはり確定的ですね。
(※)そういえば、天地真理さんの誕生年は昭和26年(1951年)ですから、藤圭子さんと同い年ですね。


2020April_A date with Marichyan


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真理ちゃんの誕生日会。かつて子供の誕生日会には近所の友達が集まりました。

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何故かしょげているニンジン君に明るく語り掛ける真理ちゃん

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自分と同じ11月の誕生日のニンジン君を思い悩む天地真理。


 天地真理応援団から独立したいと思うわたくしですが、ファンの誰かも嘆くように、わたくしも天地真理病の重症患者であることは否定のしようがないのでしょう。テレビ画面の中でも、天地真理さんのお顔とやさしき美声を聴くと、吸い込まれ、自然と彼女を応援している自分に気づきます。現在メディアへの露出を極限まで抑えた国民的大スター・天地真理を愛するってことは、ある意味大変つらいことです。

 4月11日時点で、郷里の大いなる自然を持つ田舎・岩手県は最後の感染者ゼロ県のままで謎が多いような気がします。しかし、交流の多い仙台と東京圏の感染者が急増していますから、感染者の出現は時間の問題だと思います。
 各地の桜が満開となり、本来は若葉ささやく初夏を迎える日本列島。天地真理さんも真保さんもご家族の皆さんも、新コロナの嵐に打ち勝たれるよう、全国のファンの皆さんと共にがんばっていかれるよう、願っております。


(おわり)

MW44 藤圭子さんのインタビュー「流星ひとつ」を読んで

 
 前回記事にした藤圭子さんについて、28歳で引退を発表し渡米する前に沢木耕太郎氏が、独占ロングインタビューをして、すべて会話形式で表現した書籍「流星ひとつ」を、丸善に行き文庫で買って一気に読みました。このインタビューは、1979年秋、ホテルニューオータニ40階のバーで行われ、彼女の引退公演の12月26日まで何度か補足のインタビューを重ねてまとめ上げたものとのこと。当初から出版の承諾を彼女からもらっていた沢木さんは彼女の再デビューや芸能活動への復帰に支障があるのではと思い直し、お蔵入りさせていましたが、2013年8月22日に突然、藤圭子さんの自死のニュースが流れ、急遽同年10月に新潮社から出版したものということです。当時、話題になった書籍のためすでに読まれた方もあるのではないでしょうか。

 この本は主に北海道旭川と岩見沢で旅回りの浪曲師の両親のもとで三人兄弟の末っ子で過ごした、つらく厳しい子供時代と歌手デビュー前後のこと、歌手としての熱い思いがよくわかる内容となっています。
 ちょっと時間がかかるかもしれませんが、特に印象的だったことを順次、記してみたいと思います。

 藤圭子流星ひとつ文庫表紙
沢木耕太郎著「流星ひとつ」(平成28年新潮文庫)



恋の雪割草★藤 圭子

 北海道時代の友達と会った時に、もう北海道には住みたくない、帰りたくないという純子さんですが、長い冬の後の春を告げる情景が目に浮かぶようです。旭川では両親の旅回り中は子供たちだけで居残り、食事に困ることもあったそうです。厳冬に着るオーバーもなく、かわいそうに思った他人からオーバーをいただいたとも語っています。
 私は札幌と函館周辺ですが12年間住み、仕事柄、道内各地によく出張していました。北海道は雪景色はきれいかもしれないが、雪解けがよごれて埃っぽいのとおっしゃっていますが、まったくその通りと思います。



花は流れて★藤 圭子

 独特のひっかかりがあるかすれ声。さびではドスの利く声ですが、歌うことはやはり大好きで、自分の歌う放送や録画をよく見ていたそうです。歌い過ぎると声が出なくなることがあり、デビュー直後は特に無口となり、声を温存していた。デビューから5年ほどで、声が出なくなるアクシデントが続いた。このため、国立病院で思い切って、のどのポリープを切除する手術を受けた。その後、歌声はひっかかりのない澄んだ高音が出るようになり、レコーディング関係者や目の不自由な母親が最初に気づいたが、もう本来の自分の歌声ではない、いつ歌手を辞めようかと思い悩む日々を送っていた心境が話されています。



藤圭子♥この愛に生きて オリジナル:内山田洋とクールファイブ

 前川清さんと十九歳で結婚するも一年ほどで早々離婚。それでもその後も前川清とクルーファイブの歌はお気に入りで、コンサートに行っては感動していたとのことです。結婚はデビュー3年目で特にヒット曲が出なかったため、話題作りの側面もあったような表現が記されています。



藤圭子♥哀愁の街に霧が降る

 デビュー前は錦糸町界隈で両親と流しをやり一晩に50曲ほど歌っていたそうです。歌詞カードで歌うのがいやで、必死で歌を覚えた下積みがデビュー後生きました。夜の女や任侠のドスをきかせた歌は迫力がある彼女ですが、哀愁を帯びたブルースもお得意です。心がこもっているからです。



藤圭子♥東京流れもの


藤圭子 カスバの女 1970年10月23日 渋谷公会堂ライブ収録曲

 売れっ子になって、週刊誌、特に女性週刊誌に、頻繁にうその記事を書かれていて、いたく憤慨していたそうです。その記者はNHKにまで出入りする人だった。彼女の話を聞くと、うそが大嫌いというまっすぐな心意気、潔癖症が感じられます。彼女もデビュー時一歳年下にされてしまい、結婚を発表するまで是正に時間がかかったとのこと。彼女は小中学校時代は成績が優秀で、クラスで3番以内だった。家ではあまり勉強できず、学校の授業で理解して、テストは簡単だったといっています。中学校の修学旅行は函館でした。両親は生活保護を受給していてお金がなく行けそうもなかったけど、先生が工面してくれてみんなと行けたことがうれしかったと話しました。

 両親は彼女が中三の時、岩見沢の温泉施設に職を得ることができたので、親に付いて行き、親と共に歌を披露していた。冬の雪まつり歌謡大会に、東京からの歌手が欠席となったので、長靴姿で北島三郎の「函館の女」を歌い、見に来ていた東京の作曲家の八州秀章(やしまひであき)氏に勧誘され、中学校の卒業式に卒業証書をもらった日に、母親と汽車に乗って上京の旅に出たのでした。
 西日暮里のアパートに住み、八洲氏のはからいで歌と踊り、芝居のけいこを受けたが、八洲氏が専属となっているビクターのオーデションに二度も落とされた。経済的に苦しいので親と一緒に夜の東京で流しをやった。彼女が東京に出て来たのは昭和42年(1967年)、流しをしていたのは十六、十七の頃だった。
 その後、沢ノ井龍二氏(作詞家 石坂まさを)の内弟子となって、やっと受かったコロンビアを断ってRCAというレコード会社の若きデイレクター榎本襄(えのもとじょう)氏の下で、「新宿の女」でデビュー。18歳と2か月、昭和44年9月25日のことでした。


藤圭子♥女のメロディー 本来は明るい美女なんですね

 圭子さんは、1981年に帰国して歌手復帰。RCAレコードからCBSソニーに移籍しました。宇多田照實(うただてるざね)氏と結婚し、光ちゃんを出産。その後、日本とアメリカを何度も行き来しました。(Wikipedia)



藤圭子♥ふたりのビッグショー 1997年1月27日放送(藤圭子46歳)
この時は八代亜紀さんとギターの伴奏だけで流しを再現してくれました。

 この頃、愛娘・光ちゃんが、宇多田ヒカルとしてデビューし、一躍、大ヒット歌手に。以後、娘の活躍を見守る一方で、自らステージに立つことはなくなったといわれています。

【編集後記】
 CD・音楽音源の店として有名なTOWER RECORDSのウェブサイトに、藤圭子さんの追悼文があります。最後にこの文面から、
 「彼女は宇多田ヒカルの母親としても知られ、93年に当時夫だった音楽プロデューサーの宇多田照實と娘のヒカルと共に音楽ユニットのU3を結成してCDをリリース。2000年には宇多田ヒカルの札幌公演に飛び入り参加して“圭子の夢は夜ひらく”を歌った。謹んで故人のご冥福をお祈りいたします。」

 札幌での、ヒカルさんの公演に飛び入りした圭子さん。自らの代表曲を北海道庁のある街で歌いました。うれしかったでしょう、ご本人も、娘さんも、おそらく駆け付けた友人も、若いヒカルさんのファンも・・・


女のブルース(動画)★藤 圭子
昭和51年ビックショー(デビューから6年。高音がきれいかも)

 女のブルースは、2枚目のシングルで圭子さんのお気に入り。デビュー曲と圭子の夢は夜開くに、挟まれ、レコードの売り上げは良かったが、2か月しか歌っていない曲。各番で、同じ言葉が四回続くので、当時の圭子さん、ここは東京なら、私が四つの東京を皆さんに披露できると大変喜んだと話しています。最初から最後まで歌うことも聴くことも、歌好きの圭子さんでした。(新潮文庫、流星ひとつ,p163-166.)


藤圭子♥大阪しぐれ

 圭子さんの大阪しぐれ、いいですね~。一般的に歌謡曲歌手はどうしてもデビュー直後のヒット曲のイメージで売り込む戦略を取りますが、圭子さんは阿久悠作詞の「京都から博多まで」、もそうですが、北国の寒さを感じさせない西日本、大阪の歌を歌うと、自分の固定イメージから放たれて、明るい演歌に感じます。



宇多田ヒカル - 花束を君に

宇多田ヒカル『花束を君に』誕生にあった天国の母への思い

2013.09.05藤圭子を長年応援してくださった皆様へ
MESSAGE from Hikki
Hikaru Utada Official Website



藤圭子 さすらい(改)

 紅白のあでやかな歌唱とは別バージョン。大人の女性を表現。藤圭子さんは、まだ生きているような感じがしますね。

(おわり)
プロフィール

hatogairu kouen

Author:hatogairu kouen
大津波の甚大な被害は住民にも地域にも大きなPTSD(心的外傷後ストレス障害)。「夏を忘れた海」と生きる人々の心の復興を願う三陸海岸K市育ち。杜の都在。

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