MH13.1 「二人の銀座」と「銀座ひとりぼっち」


 「銀座ひとりぼっち」は、天地真理7枚目のアルバム「空いっぱいの幸せ/オリジナルポップス&フォーク」(1973.12.5)の二番目の曲です。

 本来、銀座の恋人ソングは、高度成長期の一面を表した華やかな曲でありました。
 はじめに、皆さんご存知のように、昭和36年、今もカラオケのデュエット曲で親しまれる「銀座の恋の物語」(石原裕次郎と牧村旬子,映画:石原裕次郎と朝丘ルリ子)が大ヒットしました。

 それから6年目、昭和42年、山内賢と和泉雅子よる「二人の銀座」が大ヒットしました。当初、ベンチャーズが銀座の夜景からイメージして作曲し、越路吹雪に提供しましたが、曲を聴いた越路が自分より和泉雅子がデュエットで歌ったほうがいいと判断し、和泉に譲ったといわれています。こうして、永六輔が詞を付け、山内賢とのデュエット曲としてリリースし、大ヒットとなったのでした。また、曲のヒットを受けて映画化が行われました。この昭和42年頃は、グループサウンズの全盛期で、当時は異色の歌だったと思われますが、明るく楽しい恋人ソング、まだ高度成長期が続いていた時代のメモリアルな歌かもしれません。そういえば、ベンチャーズのエレキギターのテケテケテ、名曲「ダイヤモンドヘッド」など、なつかしく思い出されます。

 さて、さらに6年目の昭和48年にアルバムの一曲として世に出た天地真理さんのオリジナル曲、「銀座ひとりぼっち」。なかにし礼さんの歌詞はそれまでの楽しいデートソングとは違って、祭りの後の寂しさを表現し、真理さんの曲で良く使われるキーワード「ひとりぼっち」を主題としています。

 一方、作曲・編曲は、鈴木邦彦さんによる快活で勢いがあるもので、歌唱は真理さんの絶頂期、高音が空まで伸びるファルセットがみごとな、実力派に温かみを加えた、素晴らしい出来です。
 しかし、この曲は名唱にも関わらず、多くの大衆には知られない埋もれた曲となりました。現在、ファンクラブの会員にもネット上の若きファンにも根強い人気曲ですが、当時、これほどの歌唱が大衆に知られず、B面にすらシングルカットされなかったのは、何故だったのでしょうか。


空いっぱい(銀座一人)LPジャケット_convert

天地真理 「空いっぱいの幸せ/オリジナル・ポップス&フォーク」 1973.12.5


hokoten_ginza07_convert

銀座の中央通りの「歩行者天国」は昭和46年(1971年)、真理さんのデビュー年から。


   エヴァ氏 天地真理/銀座ひとりぼっち 1973

      〇銀座ひとりぼっち
       作詩:なかにし礼,作曲・編曲:鈴木邦彦

      あなたがふるさとへ 帰った日から
      銀座の街角で 私は一人
      消えた恋の夢を抱きしめて
      歩く「すずらん通り」 涙がこぼれてくるの
      今夜おそくまで
      手紙をきっと書くわ

      あなたが好きだった レンガの店で
      コーヒーをのんでいる 私は一人
      ほゝにほゝをよせて恋人が
      歩く「並木通り」 窓からみつめているの
      少し淋しいの
      一人で待っているわ

      花屋の店先で あなたの為に
      小さなバラを買う 私は一人
      いつかめぐり逢える夢をみて
      歩く「みゆき通り」 小雨がポツリとおちる
      傘をさしかけて
      あなたと帰りたいの

 (※)通り名の「○○○」は編者によるもので、原詩にはありません。
    通り名は過去の銀座ソングにもでてきます。
    分かりやすくするためにつけてみました。


 「空いっぱいの幸せ」のシングルと直後のアルバムについて、プレミアムボックスの解説文に説明があります。このころ、天地真理さんは1971年10月1日のデビューから2年が経過し、国民的スーパーアイドルの地位を固めていました。しかし、当時は浅田美代子、中三トリオ、アグネス・チャンが台頭し、アイドルは10代が主流になった時期で、小柳ルミ子、南沙織の御両人は大人の歌にシフトを始めていました。

 一方、真理さんはデビュー1年後から始まったTBS・TVの冠番組「真理ちゃんシリーズ」が佳境を迎えていました(全5シリーズの3シリーズ目)。このため、シングルも当初、哀愁を帯びた「もの想う季節」をA面とし大人の歌にシフトしようとしましたが、あまりの子供たちの人気が影響したのか、子供も親しめる「空いっぱいの幸せ」をA面とし売り出した経緯がありました。(当時、高校生の私は、今でも真理さんが歌う「空いっぱい~」は大好きな歌です。・・・ムム、私は子供か?)

 結局、大人の歌、というより「若い恋人たちの歌」のシングルは、年が明け2月、「恋人たちの港」で実現し、「恋と海とTシャツと」を挟んで、本格的には約1年後の1974年9月1日、「想い出のセレナーデ」まで待たなければなりませんでした。

 スタッフ・関係者に第三の銀座恋人ソングとして大ヒットの狙いがあったのか、さらに映画化の話があったのか分かりませんが、「高らかに歌い、恋人と手をつなぎ銀座を走りぬける天地真理、美しき20代半ばの国民的スーパーアイドルの映像」は、あまりにも老若男女問わない国民的な人気の為に、実現せぬ幻となったのでは。澄み切った秋空の下、小生の想像はたくましくも、正解を持たず、空いっぱいに大きく発散する感じです。

  “~こんなに大きく広い 世界で 二人あのとき そうよ出会ったの~”

 真理さん、たしかに、『空いっぱいの幸せ』は、銀座の街よりスケールがデカそうですね・・・

 

MH10.1 真理さんを発掘した菊地さん 1971


 先日書いた記事のなかでザ・ピーナッツのお二人に挟まれて天地真理さんが椅子に腰かけて歌うシーンの写真、元記事が分からなくて、渡辺プロダクションと真理さんらのお名前をキーワードにネットサーフィンしていたら、真理さんのマネージャーをされた菊池さんの貴重なインタビューを見つけました。この方は、真理さんが公式HPのファン限定ページ、インタビューで語っていた菊地さんではないかと思われます。

 真理さんを、発掘し、当初マネジメントしていた方は、その後もユーミンやKARAのコンサートも震災支援コンサートも手掛ける大物なんですね。真理さんのスタートダッシュに、重要な役割を担った方。われわれファンは、大変感謝しています。
 そうですか、あの五稜郭、有名な夜景、湯の川温泉、立待岬の観光地、イカソーメンのおいしい北海道・函館の御出身とのことです。道南暮らしの経験のある小生としては親しみを感じてしまいます。函館地方の出身といえば、北島三郎、GLAY・・・すいません、余談でした。

  http://www.musicman-net.com/relay/119-4.html#item-1
  ミュージシャンネット 菊地さんインタビュー

 以下に、菊地さんの、天地真理さんの発掘とプロモート、沢田研二さんのタイガーズ解散後のイベントについて語ったページをご紹介します。
※インタビュー [2014年2月13日 / (株)ハンズオン・エンタテインメントにて]

『第119回 菊地 哲榮 氏 (株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長
 今回の「Musicman's RELAY」は、(株)キョードー東京 代表取締役社長 山崎芳人さんからのご紹介で、(株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長 菊地哲榮さんのご登場です。早稲田大学在学中に応援部で活躍した菊地さんは、渡辺プロダクション入社後、ザ・タイガース、沢田研二、木の実ナナ、天地真理など多くのアーティストのマネージメントと新人発掘を担当。独立後、ハンズ(現 ハンズオン・エンタテインメント)代表取締役に就任され、松任谷由実、アリス、ミスチル、ケツメイシ、森山直太朗、KARAなど数多くのコンサートを手掛けられてきました。今回は渡辺プロ時代のお話から、菊地さんの考えるコンサート&エンターテイメントビジネスまで、たっぷり伺いました。』

  菊地さんf534cccfe4e49e
     菊地哲榮さん


『4. 新人セクションで天地真理を発掘〜全てはアーティストのため

−−新人セクションってどのような仕事をするんですか?
 菊地:北は北海道、南は九州まで東京音楽学院という学校があって、そこに新人を溜めておくわけです。レッスンをさせてね。私が「この子は音程がフラット気味になるから修正して」「この子はリズム感が悪いから」とか指示して、半年に一回デビューさせてもいいかなという新人を集めて、東京で社長にプレゼンするという役目なんです。そこで出会ったのが天地真理です。まだデビュー前の18か19の頃でした。

−−菊地さんが天地さんを発掘されたんですね。

 菊地:そうですね。可愛い子だなと思って、歌わせてみたら男のファルセットっぽい声を出すんですよね。「特徴的な声だし、これはいいかもしれない」と思いました。普通、新人セクションはデビューするまで担当して、デビューさせる段階になると、担当は制作セクションに移動するんですが、「ずっと天地のマネージャーをやろう」と考えました。

 それでTBSドラマ「時間ですよ」のオーディションを受けさせたんです。オーディションの役は風呂屋のお手伝いさん役で、天地真理には全然合わないなと思いましたが、「まあいいや」と(笑)。するとオーディションに受かっちゃって、しかもそのお手伝いさん役ではなく、天地真理用に新たに役を作ると言うんです。一説には森光子さんが「真理ちゃんのために新たな役を」とおっしゃってくれたらしいんですが、ディレクターの久世光彦さんも「任せておけ」と言ってくれましてね。

−−すごいですね。それだけ天地さんに光るモノがあったんでしょうね。

 菊地:でも、初回の台本を見ると天地真理の役が載っていないんですよ。思わず「あんまりじゃないですか」と久世さんに詰め寄りました(笑)。それでやっと出番と思ったら、2階に上がって、白いギターで「恋はみずいろ」を歌う天地真理、それを下から堺正章が見ているという5秒くらいのシーン(笑)。再度、久世さんに「1時間番組で5秒はないじゃないですか」と言ったら、「あれでいいんだよ。セリフなんて言ったってダメなんだから」「いやセリフくらいくださいよ」とお願いしたら、「ケンちゃーん」という一言だけ(笑)。

−−(笑)。

 菊地:「何なんだよ、あれは」みたいな感じでした(笑)。そのうちマチャアキが天地真理をおぶったり、少しずつ出番が増えてきて、「あの子は誰だ」という投書もどんどん来るようになったんです。それで天地真理の人気が出てきて、昭和46年10月に「水色の恋」でデビュー、あれよあれよとベストテンに入りました。

  時間ですよ104

    時間ですよ 堺正章さんと
    
−−結果的に仕掛けはバッチリだったんですね。

 菊地:バッチリでしたね。当時、渡辺プロは会社を挙げて小柳ルミ子を売ろうとしたわけです。同時期にアイドルは2人も必要ないですし、こっちは全然ダークホース。向こうは大人数に対して、こちらは私とCBSソニーの中曾根さん、渡辺音楽出版の中島さんの3人でやっていました。もちろん全社挙げての小柳ルミ子はドーンと売れるわけですよ。こっちはこっちでギリギリベストテンに入ったくらいで、「これくらいがちょうどいいな」と思っていたんですが、2曲目の「ちいさな恋」で1位になっちゃうんですよね。

−−私はその頃、中学生くらいですからよく覚えていますが、圧倒的に天地真理派の方が多かったですね。同年代はみんな「天地真理が好き」って言っていました。

 菊地:ブリヂストンが天地真理のスポンサーになって「真理ちゃん自転車」とか色んなものを作っていたんですよ。そこからお金を集めて、とにかく色んなイベントをやりました。例えば、応援部で培った人文字で “真理”と書いて、上からヘリコプターでその画を撮るとか、「恋する夏の日」のときは夏のリゾート地のテニスコートを全部借り切って、「テニスコートで真理ちゃんと遊ぼう」というイベントをやったり、天地真理のステータスを上げるのに懸命でした。

        空いっぱい_MariAgeinさん

        気球_MariAgeinさん

  人文字_MariAgeinさん

    出典:(YouTube) Mari Ageinさん 「天地真理/明日への出発」 から

−−天地さんがそれだけ売れると、菊地さんも渡辺プロ内で一目置かれるようになったんじゃないですか?

 菊地:いや、私は変人扱いされていたので。普通は上司が「この仕事をやれ」と言ったらやらなきゃいけないじゃないですか。でも、私はアーティストのためにならないと思ったら、全て拒否していました。例えば、営業部が「○○市のイベント」とか勝手にスケジュール帳に書くじゃないですか。私はそれをすぐ消すんですよ (笑)。

−−えらい強気ですね(笑)。

 菊地:全てはアーティストを守るためです。

−−それはマネージャーの理想型ではあるんでしょうが、会社組織の中では許されなかったんじゃないですか?

 菊地:会社組織には合わないですよ。結局、天地真理と私はケンカ別れするんですが、ケンカ別れをして喜ぶのは会社です。天地真理をやっと思い通りにできるわけですからね。その後、井上堯之バンドと沢田研二のマネージャーを担当するようになって、そこで井上堯之さんと出会うんです。


−−タイガース解散後ですね。

 菊地:そうです。1974年8月4日に内田裕也さんが郡山ワンステップフェスティバルをやるんですよ。いわゆる日本版ウッドストックで、キャロル、クリエイション等、渋めのロックバンドがたくさん出ていて、そこに沢田研二&井上堯之バンドが出たんですよ。その同時期に「ジュリー・ロックンツアー’74」というのをやりました。これが私の記憶にある「初めての大型全国ツアー」なんですよ。それまでは地方の興行師の方達が「この日に来てくれ」と依頼されたスケジュールに従って行くだけだったんですが、「この日からこの時期まで全国ツアーで回るぞ」と連絡し会場を押さえて、沢田がデザインした11tトラックで全国を回るんです。それが今ある全国ツアーの原型ですね。

−−そこは全部自分で会場を仕切るわけですよね。

 菊地:全部仕切ります。主導権はこちらにありますから。それで全国ツアーをやって、ツアー途中に地元の人たちとの野球大会をやったりね。こちらから主体的にエンターテイメントを持って行くという感じでしょうかね。

−−当時はそういう考え方はなかったんですか?

 菊地:あんな大がかりなのはなかったですね。沢田研二のようなビッグアーティストがやるのは初めてだと思います。ツアーは大成功で、みんなキャッキャッ喜んでお祭り騒ぎのようでした。』

 以上、菊池さんのお話しから真理さんについての回顧部分を中心に転載しました。それにしても、当初、渡辺プロの全社挙げての売り込みアイドル歌手は、先にデビューした「小柳ルミ子」さんだったんですね。宝塚仕込みの踊りと歌、そらそうですよね。それが、真理さんが、森光子さんに花があると評価され、「時間ですよ」でにわかに人気が出て、レコードや雑誌やアイドルグッズが売れ、Sony Musicにもナベプロにおいても稼ぎ頭となり、ついに日本中の人々が知っている「国民的スーパーアイドル」となった・・・・。菊地さん方のマネジメント、時代の流れ、そして真理さんの歌唱と愛くるしさとやさしさが、真理ちゃんブームを作ったのです。天地真理さんのイメージやステータスを大切に作り上げたとのこと、スーパーアイドルには、既存の組織運営を超えるスーパーなマネジメント、心意気があったのですね。フムフム、ちょっと納得しました。さらに、久世さんとか語られた記事など誰か紹介してくれたら嬉しですね。なんか、真理さんの活躍の国民的回顧と再評価がじわじわときそうで、期待したい感じです。
 

MH05.2 東京オリンピック1964年(S39) 中学生時代


 昭和39年、1964年の東京オリンピックは10月10日、開会式。晴天の下、赤いブレザーの日本選手団、ハトの群れ、ブルーインパルスの五輪の輪。市川崑監督の映画と共に日本人に誇らしく記録された平和の祭典でした。
 この時、真理さんは12才、国立音大付属中学の1年生の頃だったでしょうか。

 オランダの柔道家ヘイシンク、女子体操のチャフラフスカ、当時小学生1年生の私も、翌年、クラス全員で市内の映画館に行って鑑賞した市川監督の記録映画のおかげで、色彩も鮮明な懐かしい想い出です。
 日本人の活躍は、圧倒的な強さの男子体操陣、ソ連を破って優勝した日本女子バレー、重量挙げの三宅さんの金メダルなど。マラソンのアベベ選手、競技場内でヒートリー選手に抜かれ三位となった自衛隊・円谷選手。

   東京オリンピック聖火台

    mathsassaさん 東京オリンピック開会式

 (編者注)最終聖火ランナーとして、聖火台に点火された坂井義則さんは、昭和20年8月6日、原爆投下の日に広島県三次市でお生まれになり、当時早稲田大学1年で陸上競技選手、19才でした。開会式当日の国立競技場、トラックでの走り、そして階段の上りは、オリンピック出場をめざしていた選手だけにさすがに、素早く見事なものでした。今年、2014年9月10日、あの晴れ舞台の日から50年目、ご病気で亡くなられました。平和国家をめざし国を再建する象徴として選ばれた役割でした。その後フジテレビに入社しスポーツ報道に邁進されたそうです。当時は子供で詳しくは存知あげませんしたが一国民として、ご冥福をお祈り申し上げます。ありがとうございました。

 この年の6月16日に、今でも有名な新潟大地震(M7.5)が起こりました。液状化が発生し、昭和大橋が落橋、ビルや公営アパートが大きく傾き、石油タンクなど市内に火災が広がりました。これだけの直下型地震で、死者が26人、世界の奇跡と言われたそうです。
 さて、2020年の第二回東京オリンピックまでわずか6年。リニア中央新幹線の完成は当然、間に合いませんが、競技会場や首都圏はどのように変わるのでしょうか。被災地の復興や福島原発の安定化は、どこまでできるでしょうか。国内外に問われる、高度成長期に劣らぬ、高飛車の選択となったように思われ、少し心配でもあります。

 この年、歌謡曲では、夜明けの歌、あんこ椿は恋の花、花はどこへいった、ウナ・セラ・ディ東京などが流行りました。
 中でも、ザ・ピーナッツは、明るく元気な双子の天才デュオ。美しきハーモニーは一卵性双生児こその天性のものでした。シャボン玉ホリディーで、ハナはじめさんらのクレージー・キャッツと共演、大活躍をしました。
 ピーナッツの歌唱は、戦後の日本歌謡にとって金字塔であろうと、一般大衆の誰もが思う素晴らしさ。
 一方、テレビ媒体下の歌手としては、日本初のアイドルの誕生とする見方もあり、南沙織・小柳ルミ子・天地真理の本格・日本的アイドルのさきがけとする見方もあります。
 いずれ数々のヒット曲は、東京オリンピック前後の、そして1975年(昭和50年)頃までの、日本の高度成長時代の記憶にのこるバックグラウンド・ミュージックだったと思います。
 私は、小学生。渥美清や青島幸男が、奮闘するサラリーマンを演ずるテレビドラマ「泣いてたまるか」。流れた、「追いかけ~て。追いかけ~て。すがりつきたいの!」のハーモニックなピーナッツの歌声に、なぜか興奮して寝付けない夜がありました。


ウナ・セラ・ディ東京ジャケット

ザ・ピーナッツ ウナ・セラ・ディ東京

(注)ウナセラディ東京とはイタリア語で「東京の或るたそがれ時」という意味。

ピーナッツ シャボン玉ホリディ

恋のフーガ ザ・ピーナッツ 1967

ピーナッツとマリ

ピーナッツと共演中(詳細は不明です)

 当時、渡辺プロは、芸能プロダクション最大手。クレージー・キャッツ、ドリフターズ、ザ・ピーナッツ、伊藤ゆかり、加山雄三・・・今でも有名な国民的人気スターを抱えて、まさに飛ぶ鳥を落す勢いでした。真理さんは、進んでナベプロ帝国の一員となったのでした。上の写真は、シャボン玉ホリディーの一カットでしょうか。ピーナッツのお二人は妙齢の美しさ。真理さんは19歳か二十歳でしょうか、ギターをかかえ、かわいさ満点です。さて、何を歌ったんでしょう。

プロフィール

hatogairu kouen

Author:hatogairu kouen
明るき癒しの歌声、天性のファルセットを紹介し、悩める日本人を応援します。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
ようこそ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR