MH02.3 ゼロ戦について学んだこと


 また、八月、広島・長崎の原爆犠牲者の慰霊式典があり、15日に72回目の終戦記念日がやってきます。
 さらに、12日は日航ジャンボ機が制御不能となり群馬県上野村の御巣鷹山に墜落した慰霊の日、もう33回忌なのですね。
 この日本には、地震・津波・豪雨という自然災害が繰り返し起こりますが、戦争や大事故はまた別の悲惨さがあり、考えさせられることが多くあります。

 今は、平和ボケした日本人も、北朝鮮の核弾頭搭載可能といわれる長距離ミサイルの脅威におびえています。北朝鮮が何故あそこまで核武装するかは、容易には理解できませんが、現実はアメリカ軍だけに頼り切ることは出来ないのではないかと思うのは私だけでありましょうか。
 中国、ロシア、アメリカ(かつてはイギリス)の三大国の均衡の上に存在する北朝鮮。朝鮮半島の安定と平和は日本にとっては明治時代からの常に重要な国土防衛問題でした。戦争、戦闘は避けるべきというのは当然ですが、ねばり強い外交交渉が、アメリカと日本には求められていると信じたいと思います。

 いずれ、日本の学校教育は現代史を十分教えていない状況があり、特に若い方々は安直なネット動画、ウェブ情報だけでは、総合的な視野は得られないのではと危惧されるところです。もうじき、60才にせまる小生は、書籍も満足に読めなくなる前に、今更ながら日本史や明治から昭和の歴史を勉強し、先人の苦労や失敗、功績を出来るだけ学びたいという思いです。私は、二十歳から、一部の文学書と哲学書を除くと、狭い分野の理工学書を読み続けてきましたが、やはりこれでは日本人として大きな欠けがあるように感じています。

 
 今も飛行可能なゼロ戦が世界に数機、存在する。

 西欧科学技術の発展のもと、圧倒的な兵力および通常交通・生産技術で、世界を植民地化した西欧の帝国主義に対し、最後の帝国主義国家として、西欧に長きにわたり植民地化された東アジアとインドの解放、及びアジア圏の共存共栄と自由貿易を望んだ大日本帝国。帝国の実態は石油をはじめ資源に乏しく、工業力がアメリカに大きく劣る国家でしたが、国家経済的にアメリカ・イギリス・オランダと衝突しました。
 (ただし、確かに、帝国主義ですから、燃料・鉱物・素材資源の獲得を含め領土や植民地の拡大を重要な目的とし、日華事変後、満州、中国大陸、朝鮮半島など対外的にも、さらに自国の兵隊にも非道な人命軽視は当たり前の軍隊であったことは史実。日本軍・大本営は過酷で悲惨な戦争を是とし、国外のみならず、日本人からも非難と懺悔を求められて当然であり、反戦と非核の願いは、現在の日本人の共通の願いであることは言うまでもありません。)

 太平洋地域での大東亜戦争は、開戦直後、半年は連戦連勝の華々しい戦況でしたが、ミッドウェーの敗戦以後、有利な条件で停戦をしようとする考えはむなしい希望となりました。日本軍は国民には玉砕の美辞麗句に隠して、多数の悲惨な戦死者を出しながらガダルカナル島、ラバウル、トラック、マリアナ、フィリピン諸島(戦艦武蔵沈没)など南海の島嶼を次々失いました。昭和20年、激しい抵抗・防衛戦をしたものの硫黄島続いて沖縄(戦艦大和沈没)を明け渡し、さらに本土が米軍B29の降下する多量の爆弾、焼夷弾の空襲を受け、最期に広島・長崎への原爆で無条件降伏するに至りました。
 これらのことは、国民に広く知られていることですが、その具体的な細部を知らな過ぎるような気がします。

 この記事では、昨年からこの春にかけて読んだ「ゼロ戦」(正式名称;零式艦上戦闘機)に関する本から、ゼロ戦を中心とした海軍航空兵力の実情と歴史的経緯をまとめてみました。ゼロ戦についての話は、以下のように大東亜戦争の縮図のように思われました。

1.吉村昭著「零式戦闘機」 新潮社 昭和43年7月出版、新潮文庫版 昭和53年発行,平成25年51刷,372頁

 本書は、太平洋戦争前に開発され、終戦まで改造・製造された世界的にも優秀な戦闘機、海軍の零式戦闘機の設計、試験飛行、改良、正式採用、初戦の中国・重慶での驚異的な航続力と戦闘能力の発揮、その後の海戦での活躍、アメリカ軍の苦慮と多量の新型機による反撃の始終をまとめた技術的な記録書でもある。

 名古屋市港区大江町海岸埋立て地区にあった三菱重工名古屋航空機製作所。物語はこの製作所から戦闘機の試作機が牛車に乗せられ48km離れた各務原飛行場へ24時間かけて運搬する奇妙な光景から始まる。

 設計主務者は堀越二郎技師。堀越は上海事変の発生した昭和7年、民間四社試作競争において複葉機が大勢であった時代に無支柱単葉機を開発した(七試艦上戦闘機)。その後、昭和9年の試作競争で、堀越らは最高時速450kmの世界照準を抜く空中戦能力の高い戦闘機を製作した(九試単座戦闘機)。この機の量産機は九六式艦上戦闘機と呼ばれ、中国大陸で活躍を始めた。
 
 kazeジブリ風立ちぬ

 
 宮崎駿監督 アニメ「風立ちぬ」映像資料; 関東大震災から九六式艦上戦闘機
 そしてゼロ戦まで

 十二試艦上戦闘機(昭和12年度試作)の開発は、高度4000mにて時速500km以上の速度と優れた上昇力、長大な航続力を要求された世界最高峰の高スペックへの挑戦であり、当時の住友金属による超超ジュラルミンの使用、フレームの多数の穴あけ等の思い切った軽量化、20mm砲二台の搭載、引き込み脚の採用など、海外の航空技術を貪欲に吸収しつつ日本の工業技術の集積として設計され、試作機の試験飛行と改良を経て、皇紀2600年(昭和15年)にちなみ『零式艦上戦闘機』と名付けられた。

 海軍の横須賀航空工廠では、優秀な試験パイロットの急降下時の空中分解による死亡事故が発生した。急激な振動による空中分解・フラッター現象解決のため、松平精技師(戦後、新幹線の震動問題を空気ばねで解決したことは有名)が奮闘した。補助翼のマスバランスや操作剛性の改良などの困難な改修が航空工廠と三菱のタッグの元、急ピッチで進められた。

 この戦闘機は、パイロット達の猛訓練の後、昭和15年7月に正式採用され、中国大陸の重慶への長距離爆撃機掩護でデビューし、昭和16年12月の太平洋戦争開戦直後、真珠湾攻撃、台湾からの遠距離の比国・米軍基地攻撃、インドネシヤ制空権掌握という華々しい戦果を勝ち得た。これらの圧倒的な戦績により、海軍によるゼロ戦への信頼度は絶大なものとなった。

 
  実録 ゼロ戦の雄姿 飛行状況

 
  ラバウル航空隊~訓練度高く実戦経験者の多いゼロ戦部隊。ガダルカナル島奪回のための長距離戦闘やマリアナ沖海戦で熟練パイロットと貴重な航空機を多数失った。
 
 ゼロ戦は技術開発の急速に進む戦時において、単機同士の空中戦闘力に限れば約3年近くアメリカ軍機をしのぐ性能を保ち、三菱重工と中島飛行機(株)で最終的に約1万機、量産された。
 しかし、設計開発者の三菱では海軍からの要求で機体の改良が度重なり、次世代機開発には十分な時間がさけなかった。戦争後期、急降下制限速度が低く、防弾の軽視されたゼロ戦は、能力をアップした新型のアメリカ機に撃墜されることが極めて多くなり、これはゼロ戦の改良型では機体の強度が弱くエンジンの大型化が難しいため根本的な対処ができない問題だった。また、米軍の猛反撃で後退する日本軍では特攻機(神風)への悲劇的な常態化が生じていた。
 航空機工場では増産の要求との戦い、B29の本土空襲開始による工場の疎開、鈴鹿での女子挺身隊による最後の製造がなされた後、玉音放送による終戦をむかえた。まさに、ゼロ戦の誕生と活躍、その終焉は日本の太平洋戦争の縮図と言えると思われる。

 本書は、特に建設コンサルタントとして参考になった点は次の二点であった。

1) 名古屋市港区大江町海岸埋立て地区にあった三菱重工名古屋航空機製作所から、世界最先端技術の戦闘機(月産平均100機)が、昭和15年から終戦までの6年間、原始的な牛、後にペルシュロン馬にひかせた荷車で48km離れた各務原飛行場へ、牛で24時間、馬で12時間かけて運搬された。当時の道路は悪路で、トレーラーでの運搬は震動が大きく機体を傷めずに運搬することが出来なかった。戦時中、社会資本は港湾や空港等軍事施設を優先とし、道路整備は極めて遅れた状況であった。

2) ゼロ戦設計主務者である堀越二郎技師に、発注者(海軍航空廠)から要求された従来にない高スペック、トレードオフ性能(戦闘能力・機動性、航続性、高速度、20mm砲という重装備)に対する発注者との勇気ある率直な交渉、厳しい受け入れ検査、数多の試験飛行と修正設計という設計者としての不断の努力(一時入院)に敬服した。

 次の書籍は零戦のメカと戦歴、優秀性と限界、連合国の戦闘機や爆撃機について詳細に図解、解説を行っています。今の日本の工業技術、すなわち機械工業(自動車にも関係)、金属工業、電子機器、ガラス素材工業などかなりの分野に継承していることが想像されます。

 図解ゼロ戦のしくみ表紙

2.カラー版徹底図解「零戦のしくみ」日本航空史に燦然と輝く名機の栄光と悲しき末期,矢吹明紀ほか著,新星出版社,2013.8,全223頁.

 空母赤城ほか

 空母飛龍ほか3空母
  艦上戦闘機とは空母での離着陸が出来る戦闘機。昭和17年6月、空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍の正規型空母四台はミッドウェー海戦でアメリカ軍の空母艦載機等の攻撃を受け沈没。翔鶴はマリアナ沖で、瑞鶴はレイテ沖の海戦で没した。(同上、72-73頁)。

 ゼロ戦の設計と製造については、海軍による当初要求性能、各改良機のスペック、構造上の仕組みと海外特許等が細かに記載されている。運用については空母及び地上からの戦闘の記録、撃墜記録と被弾、各国の戦闘機、爆撃機の性能と活躍、ゼロ戦と他の国産戦闘機(隼、紫電、紫電改など)の生産台数と運用・戦歴の比較、太平洋戦争を通してのゼロ戦の役割、ゼロ戦の機械の信頼性について述べられている。

 ゼロ戦は三菱のほかに中島飛行機(現在の富士重工)でも製作された。中島は零戦の主力エンジンとして採用され続けた安定した「栄エンジン(950馬力)」の製造会社であったが、最新鋭のアメリカ式のオートメーション生産ラインをもった工場を作り、昭和15年~終戦までの三菱の生産数約3800機に対し、それを上回る6500機あまりの生産を行った(一説に合計10445機といわれる)。中島は同時に陸軍機の有名な隼(はやぶさ)を5000機、疾風(はやて)を3000機以上製作しているので、航空機の量産にあたって極めて重要な貢献をしていたことが分かる。戦後、富士重工のスバル等の乗用車が、過酷な寒冷地や悪路に強く、海外でも評価が高いことは、このような歴史からも納得されるのではないか。

 また、ゼロ戦の改良の困難さ、すなわち機銃、防弾を改良すると機体重量が増すが、機体の強度が弱いためエンジンをパワーアップ出来ないという結果的に生じる「性能低下」は、ゼロ戦の最大の特徴である「極限までの軽量化による操作性の機敏さと長大な航続距離をもたせる」という当初設計に起因していた。

 空母と横須賀US_Navy_090610-N-9565-200
 横須賀港のアメリカ軍原子力船空母「ロナルド・レーガン」~「ジョージ・ワシントン」と交代。戦艦大和・武蔵より大型です。2011年の東日本大震災では「トモダチ作戦」に従事してくれた有難い空母です。
 排水量満載 101,429トン/全長1,092 ft (333 m)/全幅252 ft (76.8 m)/機関ウェスティングハウス A4W 原子炉2基/蒸気タービン4基,/最大速力30 ノット以上 (56 km/h)/搭載機 約66機/乗員士官・兵員:3,200名/航空要員:2,480名/wikipediaより

 Washington Square- The Village Stompers- 1963
   
 最近、ウクライナの軍関係者が北朝鮮のミサイルの液体燃料、大陸弾道弾ICBMの技術は旧ソ連軍、ロシア軍の技術だとするコメントがTV報道されました。誰でもそう思うはずです。ソ連は北朝鮮の建国と大きな関わり合いをもち、アメリカと戦後の冷戦を行った超軍事大国ですから、当たり前でしょう。

 モスクワの夜はふけて/アル・カイオラ楽団

 
 航空自衛隊 特別編隊 「ブルー・インパルス」 正式名称;宮城県松島基地 第4航空団に所属する「第11飛行隊」。仙台湾に面し景勝地・松島の東に位置する飛行場は3.11の大津波に被災し、復旧しました。震災直後、長淵 剛さんが自衛隊員を励ますパフォーマンス(基地での弾き語りコンサート)をしてくれました。多感謝!!

 長渕剛 - 航空自衛隊松島基地 隊員激励ライブ_乾杯

 自衛隊の皆様、どうか70余年前の先人の御霊を大切に専守防衛に努めてください。しかし、専守防衛のあり方は、悲しいかな北朝鮮のような国家に関しては、情勢とともに変化せざるをえないのかも知れません。もちろん、多くの日本人は、1964年の東京オリンピック開会式で五輪の輪を描いたブルー・インパルスが、三年後の2020年、再び東京五輪でさらに鮮やかでたくましい飛行機雲を披露してくれることを願っていると思うのですが。

 ひこうき雲 - 荒井由実 2nd Single B (1973)

 今週の終戦の日に、NHKでインパール作戦の特集があり、当時の作戦に従事した元日本軍の生存者のインタビューと現地の参謀に加わった若き少尉の従軍日誌は生々しかった。・・・病死とあるのは銃剣の上に臥した自殺、雨季に入っての撤退と飢餓死、死体からの人肉の切り取り、ジャングルでの獣の餌食、5000人死ねば敵陣をとれると日常的に会話する現地にいた陸軍の参謀たち、戦後20年も生き残りなお自分の作戦をイギリス軍が恐れていたと自慢する作戦司令官。インパール作戦を美化する著作家、ブロガーのNさんという方は日本人に大人気だそうですが、何か根本的に深く間違っていると思われます。

 愛する人に歌わせないで 森山良子 My Memories -Ryoko Moriyama 25Th Anniversary-

 私は30代の時、東南アジアの資源探査(日本政府のODA)に応援に行き、雨季のマレー半島で2~3か月、地質踏査(土壌や川砂を採取し鉱物資源を探す山歩き)をしました。ヒル、トカゲやコブラのいる山野に分け入り、濃い茶色に濁った濁流の川も渡渉しました。平和な状態で食料があり、夕方には出発地点に車が迎えに来るのですが、特に、熱帯の豪雨下で雷の中を金属のハンマーを腰にぶらさげて歩き続けるとき、雲の晴れ間の猛暑下で赤土の道を遠くまで歩く時、雨季の終わりの多量の河川水の渓流に入るとき、けっこう過酷だなと思いました。しかし、これが食料物資の補給のない戦争であれば、生き地獄であることは、想像にかたくない。日本の善良な若者よ、自分の頭で考えなさい。空気など読まないで・・・

 灰田勝彦 - 森の小径 (1940)

 8/18修正追記 (以上)

MS03 パリからの手紙 第3節 音楽教育 (フィクション)


3.横浜音楽大学(仮名)付属中学・高校の頃

 M子がピアノを習い始めた頃は小学校2年生で、横須賀港の見える住宅地の一角に住んでいた。ピアノは横浜音楽大学(仮名)に通う女子大生のO先生に習っていた。先生の家は京浜急行線の汐入駅の近くだった。M子は几帳面な子供で、いつもレッスン時間ちょうどに先生の家の玄関を開けて入った。
 先生の家のレッスン室にはグランドビアノがあって、テーブルの上にはいつもお菓子が置いてあった。また、道を挟んで鯛焼き屋があって、M子はレッスンが終わると「ア~終わった!」と言っては、お小遣いで鯛焼きを買って食べながら帰えった。M子は、通りすがりの誰もが振り返る、瞳が大きく、歩き方の可愛い女の子であったが、食がしっかりしていて、健康的な児童であった。

 M子の自宅には、ドイツのライセンスで国内の楽器製造会社が製作した上質のアップライトピアノがあって、いつでもしっかり練習してから先生のレッスンに通っていた。このピアノは母が、運よく仕事関係のお客さんを通して、ローン(当時は月賦といった)で購入したものだった。当時の親には、テレビも高価だったが、より高価な品は、思い切った買い物であった。しかし、仕事で子供に十分に寄り添えないため、清水の舞台から飛び降りるような強い気持ちで愛情を注ぎ込んで購入したのだった。「清水の舞台から飛び降りる」、これはM子のその後のけっして「小さくない人生」で、キーワードのように何度も現れてくるのだった。

  【演奏動画】中古ピアノ クロイツェル KE600 グランドギャラリー

  横須賀市
  横須賀港と東京湾

 M子のピアノは続けていくうちに段々と上手くなっていき、途中で投げ出した友達の女の子にずいぶん羨ましがられた。先生もM子が上達していくことを喜び、いつしか先生がM子の家へ遊びに来るようになった。先生はとても美人で、M子の母に恋愛の相談などしていた。
 M子は、横須賀市民会館でO先生門下生の発表会があったとき、小学校5年であったが、演奏順は最後で、トリを演じた。
 その日、M子は朝に美容院に行って髪をアップにしてもらい、洋服はレモン色のスカートスーツを着た。弾いた作品はブルグミューラ作曲「アラベスク」だった。M子の母が客席で心配そうに観ていたが、M子の演奏はあまり緊張もせず堂々としていた。
 M子は、先生の友人が教えるピアノ教室の発表会にも特別参加することがあったが、その時もトリで演奏した。彼女は、一瞬シーンと静まる会場で、最初、指を鍵盤に触れる瞬間と、曲に没入して弾き終える瞬間がたまらなく好きだった。

 その後、先生に彼女の通う横浜音楽大学の付属中学への入学を勧められ、先生ご自身が習っていた大先生KG氏のレッスンを受けるため横浜市内に通った。
 横浜での受験日当日はお正月が過ぎた1月中旬、とても寒く、教室にはたくさんの小学生と親がいた。部屋には円筒形の石油ストーブが1台だけあった。M子の母はその教室で愛する娘の受験が終わるまで、祈りながらじっと待っていた。M子のビアノの実技試験はたゆまない普段の練習のおかげで、首尾よく行った。
 M子は母親の影響で言葉使いがはっきりしていて、やさしく丁寧だったので、親子での面接は、高い評価点が得られた。ただ、音楽学校では本人の音楽の才能と親子の性格や経済事情が重要な評価項目だとは思いもよらない小学六年生は、午後に行われた国語や算数など学科試験の出来が振るわず、そのことだけを心配して、帰りの電車で、母の腕にしがみついて涙ぐんでいた。

 相模原湾の湘南も近い横須賀。二月なかば、もう石畳をゆっくり散歩したくなるような温かい春が来た。M子は合格発表を母と一緒に見に行った。
 M子は、到着するとすぐに合格者掲示板に自分の名前を見つけた。彼女は、見事に、横浜音楽大学の附属中学に入学する夢がかなったのだ。さくらが満開、大喜びの母は、わが子に新宿伊勢丹で買った桜色の洋服を着せ、顧客の経営する写真スタジオで記念写真をとった。

 音大付属中学のM子は、毎日、青いラインの入ったセーラー服を着て、海を見ながら電車で片道二時間の通学をした。横浜の海の見える公園は学校と隣接していて、入港する大型の外国船、特にギリシャ等のヨーロッパ行きかと想像させる白い客船を見るのが好きだった。彼女は、1964年(昭和39年)、東京オリンピックが開催された首都圏の明るい雰囲気に内心、うきうきしていた。
 彼女は付属中学の三年間は「ピアノ科」を専攻し、彼女の上達した演奏は卒業記念にレコードになった。このレコードのピアノ演奏は見事な出来だったが、それゆえ、後年、有名な国民的アイドルになった時、その外見的な美しさからか、この演奏が自ら一人で弾いていることを信じてくれる人は少なかった。一方で、彼女は手のひらが小さく、高音部を弾くためにいつもめいっぱい指を広げ無理をしていた。

 付属高校に進学した1968~1969年(昭和43~44年)、いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」が流行った。ご当地の横浜だけではなく、日本中に流行した。歌謡曲、歌、歌・・・彼女はおもいきって、清水の舞台から飛び降りるように「声楽科」に編入した。彼女は通常の話声は女の子らしい明るい声だったが、何故か歌うとアルトかメゾソプラノが楽に出せる音域だった。彼女は、シューベルト作曲の「魔王」や「鱒」の得意なフィッシャー・ディースカウ(Dietrich Fischer-Dieskau)にはなりたくなかったし、モーツアルト作曲のオペラ「魔笛」の「夜の女王」でもなかったので、クラシックの多くの声楽家が行うファルセット、ベルカントで高音を歌うことを学んでいった。



いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」1969、レコード大賞作曲賞


いしだあゆみ「美しい別れ」紅白歌合戦 1974年
M子も歌手として同じステージに。夢のような二十代。


~横浜港~恋人たちの港/天地真理 (1974年2月)


(つづく)

【お断り】「パリからの手紙~国民的アイドルだった歌手・M子の想い出」(フィクション)について
 ベートーベンをモデルにジャン・クリストフを書いたロマン・ロランにあやかり、天地真理さんの著書やCD付きの自叙伝などを原典に仮想・元国民的スーパーアイドルの回想を、全12節ほどの短編にしています。あくまで、主な個人名、固有名詞は仮想の名前としました。全編、強いて言えばパロディでありますが、悪しからず。(ハト)

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Author:hatogairu kouen
明るき癒しの歌声、天性のファルセットを紹介し、悩める日本人を応援します。

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