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MR96 九月の歌「想い出のセレナーデ」


 天地真理さんの歌手デビュー45周年も最後の月となりました。早いものですねぇ~、あの渋谷での楽しかった45周年記念パーティーからもうじき一年です。ここでは、当ブログに設けていた「はじめに【 今月のおすすめ動画ほかコンテンツ 】」から、前半部を転載し、多少付け加えてみたいと思います。(2017年9月に加筆・掲載した記事です)

 ここ宮城では、八月は、梅雨ように細かな雨模様が続きました。すずしい夏で過ごしやすかったなんて言うと、やっぱりちょっと年なんでしょうと思う今日この頃。今月はまだまだ残暑の厳しい地域が多いでしょうが、確実に秋が近づいてきます。
 私事、昭和40年代後半、1974~1975年は、高校2,3年の受験生でした。九月は体育祭など校庭のグラウンドで、残暑を体いっぱいに感じていましたね。よく覚えています。そうかあの時代が、真理さんが大人の歌を歌い始めた頃だったのですなぁ。

  夏が終わっちゃうのは許せないわ真理(佐藤秀和氏)
 「もう~真理は夏が終わっちゃうのは許せないわ!」 画像:佐藤秀和氏F.B.より

 さて、九月は、法隆寺がお好きな(柿食えば鐘が鳴るなり~)天地真理さんのオリジナルリリースは、シングルは4枚で、オリジナルアルバムは1枚でした。

 S1 1972(昭和47)年9月1日 4thシングル
   「虹をわたって/トンガリ屋根の教会で」 オリコン1位

 LP1 1972(昭和47)年9月21日 3rdアルバム
   「虹をわたって」+フォークソング オリコン2位

 S2 1974(昭和49)年9月1日 11thシングル
   「想い出のセレナーデ/わたしの場合」 オリコン4位

 S3 1975(昭和50)年9月1日 15thシングル
   「さよならこんにちわ/明日また」 オリコン36位

 S4 1980(昭和55)年9月1日 22thシングル
   「初恋のニコラ/不器用な女(ひと)」 

 想いでのセレナーデNEWBEST

 「想い出のセレナーデ」1974.9 歌のゴールデンステージ/Sugi4Geru氏

  天地真理/想い出のセレナーデ 「デビューして三年たちました・・」

  
 Mari Amachi/Photo Movie by Mr.PAKURON

 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 石川ひとみさんの「想い出のセレナーデ」☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 

 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆☆ ☆ ☆☆ ☆

 01神田古書センター
 皆さんご存知のように、8月12日(土)~13日(日)、東京・神田の古書街で、有志の方々による天地真理コレクション展があり、来場者150名を下らぬ大盛況だったとのことです。主催者代表のフジイ氏ほか出展者、関係者の皆様、ごくろうさまでした。
 小生は行けませんでしたが、ここで、佐藤秀和氏のFaceBookの写真等を一部転載させていただきます。

 02お迎え真理さん
 真理さんのお出迎え、いいですね!
  真理さんに、声かけて、一言二言会話出来たらなぁ~。

 小柳ルミ子~天地真理「ひとりじゃないの~虹をわたって」1974.10.13/Sugi4Geru氏
 
 04MA展示005コレクション
 アイドルグッズのさきがけの真理さんですが、CMの景品や小物の写真グッズもいっぱいあるのでしょう。当時は気付きませんでした。平凡も明星も見てなかったもので・・・

 05MA展示007映画ポスター
 真理さん主演の映画のポスターですね。

 展示004
 真理さんは、空や海の歌が多いですが、青色の衣装がお似合いです。本来、明るい御性格だからでしょう。週間現代、ポスト、文春、婦人誌、カーマニア雑誌など週刊誌・月刊誌の表紙も多数でした。
 有名週刊誌の表紙、小生は、正直、昨年の45周年祭の飲み物コーナーで初めてみて圧倒されました(本当に週刊新潮はないのかな?)。当時は高校生、思春期でしたから、平凡パンチや週間・月刊プレイボーイにどうしても目が行きがちでした。真理さんの全盛期、小生は確かに子供でありました(笑い)。

 天地真理ファンコレクション展を撮った/yb kjrさん

 06MA展示009レコードS
 真理さんのシングルレコード一式ですね、圧巻です。大学生時代だったら気付けば入手可能だったでしょうか。学生時代は気取ってクラシック、ジュリーアンドリュース、中島みゆきや松山千春(北海道にいたから)、寮歌集のアルバムや曲ばかり聴いていました(ちょっと笑い)。



 なつかしい!松山千春の大ヒット曲「大空と大地の中で」(1977)ですね。過ぐる八月下旬、わけあって北海道新幹線と室蘭まわりの特急を乗り継ぎ日高支庁の親戚に行ってきました。久々の北海道の夏、広大な自然は今も変わらずでした。

新函館駅到着20170827
新函館駅到着 在来線ホームを望む 2017年8月下旬
 
 北海道新幹線、快適でした。青函トンネルもスムーズにあっという間でした(そうだ昔、海底駅で下車して本坑と並行する避難坑道を歩いて見学したことがありました)。新函館駅のホーム、これから苫小牧に行くため特急(「北斗」だったかな)に乗継です。道内の特急の速さは昔のままでした(ちょっと悲しい)が、隣の窓際の20代後半と思しき若い女性が、実家のある渡島半島・函館駅から札幌まで帰るような感じの、一般の職業人でしょうか、とびきり美人顔で驚きました。よほど「あなた、スーパーモデルのようなお顔ですが、わたしはかつて国民的スーパーアイドルと呼ばれた方、天地真理さんを応援するファンクラブの一員です。よろしく!」と自己紹介しそうでしたけど、年を考えて自制しました(笑い)。

 北海道といえば、学生時代、専攻が地質学だったので、北海道を二回にわけて、大学のバスで巡検(一般地質野外学習)をしました。後に、講座に配属後、指導の先生や大学院生の車に便乗し、固有のフィールドに行くわけですが、道央、道東もしばし旅することになりました。楽しい思い出です。1979年~1980年(昭和54年~55年)の頃でした。

 元気です / 吉田 拓郎 (フォト:摩周湖より)

 今の妻と婚約後、苫小牧から八戸にフェリーで渡り、妻の赤い三菱ミラージュで三陸海岸を実家まで南下しました。良い思い出ですが、妻をもっと大切にしないと、バチがあたるかも!



吉田拓郎/落陽(らくよう)1973年~苫小牧発仙台行きフェリー~
 ギター伴奏 石川鷹彦氏

 想い出、思い出つながりで、上記の有名な拓郎さんの曲ですが、当時は高校生や大学生ではフォークソングブーム、旅ブーム(ヒッチハイク、ツーリング、ユースホステル;全国民的にはデスカヴァーJAPAN)でした。フォークは赤い鳥、かぐや姫、いるか・・実兄の友人ということでヤマハのNSPも好きでした。「汗」とか「さよなら」とか。
 この「落陽」という曲は1973年中野サンプラザが初演とも言われていますが、この年は天地真理さんの全盛期、「若葉のささやき」、「恋する夏の日」、「空いっぱいの幸せ」が大ヒットした年でした。



 風の「22才の別れ」 (作詞・作曲:伊勢正三,1975.2) 、流行りました。高校生の時、卒業まじかの一つ上の女子生徒が連れだって体育館のそばで歌っていた。(風の新曲だった。)そんな記憶があります。

 また、松山千春さんや中島みゆきさんが活躍を始めた1970年代後半(1975~)は、中島みゆきさんのスットンキョウで楽しい深夜ラジオ番組「オールナイトニッポン」が人気でした。その後、1980年(昭和55年)、松田聖子さんがデビューし、当初はアイドル歌手何人かでラジオ番組をやっていて、「青いサンゴ礁」もその頃、はじめて聴いた曲でした。その松田聖子さんが、次々アイドル歌手としてヒットを飛ばし、今も歌手として活躍されている。確かに、確かに、昭和歌謡史の一断面を想い出す秋ですね。 


松田聖子「青いサンゴ礁」(1980)

 聖子さんの親衛隊もずいぶん元気でした。スーパーアイドルの真理さんから生じたともいわれる「親衛隊」。これもアイドル文化なのですね。真理さんの昨年の45周年祭、自分も含め平均年齢60才前後でしたが、同じ感じで、まだまだ勢いありましたね(笑)。

 高校時代に仲の良い友達たちが、吹奏楽部やクラシック音楽愛好家だったので影響を受けて、まず家にあったベートーベンの第五番から聴いていき、だんだん交響曲や協奏曲の良さが分かっていきました。バイオリンの駆け上がるような音も快感ですが、真理さんのファルセットの高音部も快感に感じます。

 震災後、ご両親が福島県いわき地方ご出身の高橋洋子さん(アニメ・エヴァンゲリオンの主題歌で有名)の新譜・クリスマスソング(ハーフ版のレコード)を購入した時、当座のプレイヤーを購入していたので、この休日、30数年ぶりに、学生時代、清水の舞台から飛び降りるつもりで買ったサバリッシュ-バイエルンのモーツァルトの魔笛(東芝EMI,LP 3枚組)をひさびさに聴いてみました。プレーヤーはホームセンターで購入した安価なものですが、けっこういい音がします。電子機械技術は、CD、DVDからマイクロな記憶媒体が当たり前になりましたから、きっと長足の進歩を遂げているのでしょう。


 01_魔笛箱入りレコード

 02_魔笛歌詞カード
 パパゲーノ、パパゲーナ、ザラストロ、タミーノ、夜の女王のアリヤ、
セリフ"Das kan ich nichit!"(それは出来ないわ)など、若い時の記憶はあります。

03_魔笛東芝3枚組EMI

04_サバリッシュ_バイエルン魔笛1972

 購入は家庭教師のアルバイトをしていた1977年ないし1978年の大学2年の頃だと思います。よく見ると録音が1972年、真理さんがデビュー半年余りで「ひとりじゃないの」をヒットさせ、4枚目のシングル、「虹をわたって」を歌っていたあの年の9月だったのです。歴史、すなわち時間は人類による同時進行だからよくある話ですが、楽しいですね。
 


田中彩子 / 夜の女王のアリア~歌劇《魔笛》より(モーツァルト)


 Mari in Paris_DSCF8767-200

 さて、上の写真、ご存じ、篠山紀信氏撮影の有名な写真、天地真理のパリの休日、の一部です。(2017年天地真理カレンダー9月より)
 真理さんは、パリやヨーロッパ好きなところは、やはり音大付属中高で受けた六年間のクラシック音楽教育に因っているような気がします。写真は、恋する夏の日のジャケット写真をロンドンで撮った1973年の初めてのヨーロッパ旅行ではなく、ファンの方のコレクション・芸能雑誌の切り抜きに「再びパリへ」とありますから、1974年ということになるでしょうか。真理さんは1973年~1975年まで、毎年、ヨーロッパを訪れていたとのことです。

 ヒロ氏/天地真理 in パリ「初恋のニコラ」 Mari Amachi in Pari "nicola"


(おわり)

MS04 パリからの手紙 第4節 デビュー(フィクション)


4.芸能界入りと歌手デビュー

 M子の芸能界入りのきっかけは、素人参加番組「ビューティフル・モーニング」に出演して歌ったことだった。今では珍しい朝ごはんの時間帯にオン・エアーの若者向け番組だった。
 音大付属高校を卒業し、ヤマハ音楽振興会でレッスンに励んでいた1970年(昭和45年)、M子は18才だったが、レコード会社C&Sのディレクターが外見の可愛らしさだけではなく、M子の歌を聴いてスカウトを決めた。

 いつもM子のすることをすべて許してくれた母は、芸能界入りには反対した。しかし、彼女は「芸能界」という未知の世界でがんばってみたい気持ちでいっぱいだった。
 M子は「お母さん、私は自分で自分の道を切り開いてみたいの。1年間だけ試させて」そういって、母を説得した。
 彼女は、勇気を出して「清水の舞台」から飛び降りたのだった。

 レコード会社から大手芸能プロダクションWプロに預けられたM子のデビューは、1971年夏、シャボン玉ホリディーだった。クレージーキャッツやザ・ピーナッツで人気のWプロの看板番組だった。M子はピーナッツの二人に挟まれて、ギターを弾きながら「恋は水色」や「あの素晴らしい愛をもう一度」など、流行りの海外のポップスや人気のフォークソングを歌った。

 デビュー前年、1970年(昭和45年)は大阪万博が盛況だった。まさに高度成長期で、アメリカ館の月の石をひと目見たさに全国から大勢の日本人が大阪万博の太陽の塔の下に集まった。M子はこのとき、ある電気事業者のパビリオンでコンパニオンをしたことが縁で、1971年、NHKの朝の連続ドラマのオーデションに参加することになった。
 NHKは大阪万博の盛況を受けて、東京オリンピック(戦前に計画されたが、中止され、1964年に開催された)の開催に奮闘した青年国会議員にスポットをあてたドラマを製作しようとし、その妻がヒロインだった。M子は主役には落選したが、愛らしく優しい笑顔と頑張り屋な性格が、プロデューサーに評価され、ヒロインの友人役に選ばれた。この朝ドラは、かつての「お花はん」に匹敵する人気ドラマとなり、M子の知名度も一躍、全国的となった。

 初め、M子のレコード会社では、M子を日本のメリー・ホプキンに、第二の森山良子に育てようという方針だった。このため、スタッフもフォーク関係の人たちで、LP1枚もみんなで、手作りでゆっくり作っていこうと話しあっていた。どちらかといえば地味だけど、実力のある歌手を目指していた。
 ところが、はじめてレコーディングした「白雪姫の恋」が、いきなりヒットチャートの3位。必然的にM子は「白雪姫」と呼ばれ、フォークソングとポップスの二刀流の生活が始まった。デビュー曲以後、シングルは11曲目までオリコン週間ランキングでトップテン入りを果たした。また、オリジナルLPやギフトパックと呼ばれた編集版LPも飛びように売れた。

 全国区の人気のアイドル兼歌手は、後の太田裕美にまさるとも劣らず、とにかく超多忙であった。
 まず、M子は横須賀の母の元を離れ、東京・青山のマンションに移った。
 M子は、デビューしてから1年間は1日も休みなしで、スケジュールは本当に3分きざみ。朝10時に起きると、新聞や雑誌のインタビュー。これが3分間ずつ。午後から夜にかけては歌番組の出演もあり、そのあいだにも、雑誌のインタビューなどがあった。
 雑誌の表紙撮影やレコーディングは夜中から深夜で、仕事が終わるのが朝の5時。そして、次の日はまた、10時起床のため、睡眠時間は3~4時間と殺人的なスケジュールだった。
 M子は、自宅では食事する時間もなく、お茶も沸したこともない程の忙しさで、部屋に帰るとシャワーの後、憩う間もなくベットに倒れ込む毎日だった。当時、全国的に人気のアイドル歌手は、高度成長期の日本全国民の勢いのまま全国的なブームとなり、関連グッズも多く作られ、子供から青年男女までファンの購買意欲を刺激し、年間数十億円に達するビッグ・ビジネスに急成長していった。

 M子は、母親が調理師でもあり食がしっかりした女の子として成長したが、この頃の食事は、レストランなどに行くと目立つため、車の中で打ち合わせや休憩をしてサンドイッチやお弁当を食べていた。ともかく、海外の商社マンがエコノミック・アニマルと呼ばれた時代。大人気のアイドル歌手が、歌のレッスンやレコーディングに時間をかけたいとの希望は、徹底的に無視された悲しくもすさまじい時代であった。

 M子が、帰宅しもっとも楽しみにしていた一番のご馳走は、なんと「うな重」だった(驚くことはない。かの冬ソナの人気で多忙な女優チェ・ジウの大好物は朝鮮人参とも言われている)。そのころM子が住んでいた瀟洒なマンションの前が有名なうなぎ屋だった。たまに、仕事が午後にスタートするときなどには電話で出前を頼んだ。ただ「誰にも絶対に住んでいるところを教えちゃだめだ」と、マネージャーから注意されていた彼女は、出前の人が来てもドア越しに、「そこに置いといてください。下からお金、払います」と言って、ドアの下からお金を出していた。

 たしかに、ものすごい人気の女性タレントが、一人住まいしているマンションを知られることは、危険なことだった。彼女が深夜、あるいは早朝、テレビ局やスタジオから自宅に帰るタクシーは、暴走族のオートバイに追跡されるのが常だったからである。まあ、確かにうなぎ屋の店員さんが暴走族と親しいことは、無きにしもあらざることだったのかも知れない。

 
 メリー・ポプキン 「悲しき天使」

 
 森山良子 「この広い野原いっぱい」 (デビュー50周年は2016年でした)

 森山良子公式ウェブサイト

 
 フォークソングを愛する天地真理が歌う 「この広い野原いっぱい」 

(つづく)

【お断り】「パリからの手紙~国民的アイドルだった歌手・M子の想い出」(フィクション)について
 ベートーベンをモデルにジャン・クリストフを書いたロマン・ロランにあやかり、天地真理さんの著書やCD付きの自叙伝などを原典に仮想・元国民的スーパーアイドルの回想を、全12節ほどの短編にしています。あくまで、主な個人名、固有名詞は仮想の名前としました。全編、強いて言えばパロディでありますが、悪しからず。

MR97 もう一度流行歌「想い出のセレナーデ」1974年10月


【朝日新聞土曜版(2017年9月23日)もう一度流行歌について】

 残暑はいまだ強いのですが、次第に本格的な秋を迎え、夫婦で兄弟や子供・孫に梨や柿を送ったり、お彼岸で三陸の実家の墓参りや、釜石でのラグビー観戦にあわただしい休日をおくっている中で、朝日新聞の土曜版beに、宮城県女川町出身の中村雅俊さんの「ふれあい」がメインのインタビュー記事となり、その他に、郷ひろみさんの「よろしく哀愁」、天地真理さんの「想い出のセレナーデ」に関して読者のコメントが紹介されました。

 中村雅俊さんは先の東日本大震災でいとこを亡くされていて、何度も地元を慰問されています。
 ここでは、真理さんの記事の一部をご紹介いたします。

 ■哀惜歌う真理ちゃん 想い出のセレナーデ

 1970年代前半に国民的アイドルとなった天地真理さんは、花を咲かせたような笑顔が印象的だった。読者アンケートで、沢田研二さん「追憶」と同じ票数で11位だった「想(おも)い出のセレナーデ」は、デビュー曲「水色の恋」から続けていたシングルチャートのトップ10入りで最後の曲。愛する人を失った悲しみを歌い上げた。

 「感情過多にならず、すべてを受け入れているように悲しみを美しく歌った真理ちゃんの姿が目に焼き付いている」(千葉、54歳女性)。

・・・何名かの投稿コメントがありましたが、私は、天地真理オン・ステージのように、真理さんのこの歌の歌唱にあまり極端な哀愁を感じていないためこの方のコメントが一番、共感いたしました。

  1974DEC

 このコーナーで、初めて、真理さんの歌が、記事として取り上げられました。10月中旬に掲載予定の「ひとりじゃないの」の前祝、伏線としての記事掲載のようにも思われました。

 
  FM番組より ♪夏を忘れた海,ゲスト:天地真理 1976/6 PAKURON氏
  アルバム「私は天地真理」の紹介コーナーで、貴重な放送録音です。

  171007asahibeMrsMatushita
 10月7日のもう一度流行歌は1979(昭和54)年4月の曲から桑江知子さんの「私のハートはストップモーション」でした。記事の最下段に☆次週は「ひとりじゃないの(天地真理)」の予定です。と確かに告知がありました。(ファンクラブ仲間の松下さんからF.B.にて)

  私のハートはストップモーション 桑江知子

以上

MR98 北朝鮮が騒々しいのでサブマリンについて


 いやはや、近々の話題は、やはり北朝鮮のミサイル、大陸弾道弾に対する心配で、アメリカのみならず、ロシヤ、中国もあわただしい動きを示しています。
 核兵器の使用は、唯一の被爆国であり、原発の大津波によるメルトダウンも経験中の日本にとっても、世界にとっても、決して行ってはいけない愚行と言えましょう。

 安倍首相は、このようなときではありますが、野党勢力の衰退している今を好機と判断し、憲法で自衛隊を明確化させるために、あえて衆議院選挙を行い、国民に信を問いただすという、行動に打って出てました。(しかし、小池さんの希望の党結成によって野党第一党の民進党が事実上解体し、野党再編成が生じました。マスコミに言わせると政党には政権獲得選挙、国民には政権選択選挙の様相ですが、ホントでしょうか?)
 
 今年の夏、広島・長崎の原爆を運んだ戦艦インディアナポリスを魚雷で沈めた日本海軍の伊号第58潜水艦(注1,2)の話や長崎沖で終戦直後、アメリカ軍に沈められた多数の日本の潜水艦の探査結果が詳しく報じられました。

(注1)艦長 橋本以行少佐。1945年7月29日、米重巡洋艦・インディアナポリスは、原子爆弾をテニアン島に搬送した直後、寄港したグアムからレイテ島に航行中、日本海軍・伊号58潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈した。海上に残った米兵はサメの恐怖に怯えつつ、体力の消耗激しく死者多数。米艦長は軍法会議にかけられ自殺。戦後、橋本氏らの協力を得て無罪の逆転判決を勝ち取る。Wikipediaより
(注2)2017年8月18日、マイクロソフトの共同創業者ポール・アレンが率いる民間のチームが太平洋の水面下18,000フィート (5,500 m)の深さの海底で、沈没した本艦を発見した。チームは戦艦武蔵発見に次ぐ功績となった。
 
 私は、この夏、ゼロ戦について学んだ後に、太平洋戦争中の日本海軍の潜水艦について、吉村さんの本を読み、驚きの事実を学んでいましたので、その概要をご紹介したいと思います。

【概要と感想】 吉村昭著「深海の使者」1973(昭和48)年~文春文庫(1976年),2011年新装第1刷を読んで

 ドイツと連絡を取るために活躍した日本海軍潜水艦の運用の実話。伊号潜水艦の派遣第一号(伊号第三十潜水艦:艦長 遠藤 忍中佐)はイギリス軍の哨戒をさけ南アフリカ喜望峰の沖合(荒波海域)経由でドイツとの往復に成功した。ドイツではヒットラー総統、潜水艦隊司令官デーニッツ大将ほかドイツ側に歓待され(艦長にクロス勲章授与)、日本国内でも大々的に報道された。しかし、シンガポールに一時寄港した折、要人やドイツ軍提供の兵器図面は飛行機で一足先に帰国させていたが、潜水艦は帰国目前、シンガポール海域で機雷に接触し沈没した。

 i031伊号建造中
 写真1:伊号第31潜水艦。横須賀海軍工廠の船台に乗った進水前日の姿
 (時事通信社HP 時事ドットコムニュース 日本海軍伊号潜水艦 写真特集)

 また、別の伊号潜水艦(伊号第二十九潜水艦:艦長 伊豆寿一中佐)は、インド洋上でドイツのUボートからチャンドラボースを引き取り、インド独立指導者の日本召還に成功した。

 日本は同盟国の要人や技術者の受け渡し、およびレーダーやジェットエンジンなどの先進技術の入手を目的に、航空路の開拓をイタリヤ、ドイツと模索し、また朝日新聞社号や航空研究所の長距離航空機でヨーロッパとの連絡を試みた。しかし、ソビエトとの日ソ不可侵条約に抵触することを極度にきらった東条内閣によって、大陸直行コースは許可されず、距離の長大なインド洋周りを余儀なくされたが、いずれも失敗に帰した。

 伊号第八潜水艦001
 写真2:伊号第八潜水艦 ドイツへの往復を果たした唯一の潜水艦だった

 大東亜戦争後期、ドイツとの連絡は潜水艦のみとなったが、伊号潜水艦の日本本国への帰還成功は二回目の1艦(伊号第八潜水艦:艦長 内野信二中佐)のみで、他の四艦(伊号第30,第34,第29,第52潜水艦)は全て、アフリカ西岸、大西洋または帰還目前の西太平洋にて、連合軍の主に掃海や潜水艦攻撃によって撃沈された。

 伊58遠景001

 i58伊号艦橋001

 伊58号217探査結果
 写真3,4,5:今年2017年、長崎県沖の海底で探査された伊号第58潜水艦 (悲壮な特攻・人間魚雷回天の母艦でもあった)

 戦争末期、大型伊号400型2艦は、一時パナマ運河攻撃を計画したが、終戦時、太平洋上でアメリカ軍に捕捉、本国に回航され、驚異的な技術力を詳細に研究された後、ハワイ沖で爆破、海中深く沈められた。また、新鋭艦の水中高速潜水艦・伊号200型は、戦後の主要国の潜水艦の原型となったとされる。

 i400toUSA011

 i400toUSA001
 写真6,7:伊号400型は終戦後、アメリカに回航させられ、調べつくされ、撃沈された。艦体と艦橋の間に晴嵐とよばれる戦闘機を3機収納できる円筒形を持つ。

 日本軍にとって電子探知技術の立ち遅れは、ドイツからの優れたレーダー機器を積んだ多数の潜水艦が撃沈され、解消できない重大課題で終わった。また、日本側垂涎のドイツのジェットエンジンの設計図も潜水艦と共に沈み、日本の戦闘機の革新に影響を与えることが出来なかった。ただ、優れた潜水艦建造技術は戦後の冷戦に貢献したと思うと複雑な心境であった。
(書籍の概要と感想、おわり)

 時事ドットコムニュース/日本海軍伊号潜水艦 写真特集


 宇宙戦艦ヤマト初代001

 バンダイ宇宙戦艦ヤマト

 ここで、初め1974年10月6日~1975年3月30日(注3)にテレビ放映され、今も新しいアニメ映画が製作されている宇宙戦艦ヤマトをふと思い出しました。そういえば、この艦艇は、あの戦艦大和と伊号400型の合体型のようなイメージがあることに気づきました。

 (注3)昭和49年10月から昭和50年3月。天地真理が「想い出のセレナーデ」を歌い、NHK紅白歌合戦に三回目の出場をした日々を含む期間。小生は高校二年生の受験勉強期。昭和49年の秋はラジオで長嶋茂雄選手のジャイアンツ引退セレモニーを聴きながら、数学の問題を解いていたような記憶がある。確かにあまりテレビを見ない時期でした。


宇宙戦艦ヤマト(松本零士,1974)
序曲,オープニング&エンディング/佐々木いさお

 御存じのように、宇宙戦艦ヤマトはガミラス星の攻撃を受け、強い放射能に汚染され死に体の星に急変した地球に対し、放射能除去装置を譲渡してもらうために、はるかかなたのイスカンダルに向かうドラマですが、何故か今の日本に通じるようなストーリーです。

 日本、アメリカ、韓国、中国、ロシアは共同でこの事態を回避すべきでしょうし、回避してもらわなければなりません。
 今は、北朝鮮はミサイルを東北や北海道の上空を飛行させ、実験すなわち開発を行っていますが、東京上空を飛行させることはいとも容易だということを、関東や中部・近畿の大都会の方々には重く受けてめてほしいと思うのです。


宇宙戦艦ヤマト2199   「真っ赤なスカーフ」

 STAR BLAZERS 2199 TRAILERS (13min)/yamatocrew01


 未来とは言わないが、現代は米ソの冷戦時、原子力潜水艦と潜水艦発射ミサイルSLBMが開発され、世界の海にひそかに活動していた。
 これは、伊号400型の戦闘機3機発艦タイプの戦後の発展形であって、潜水艦から核弾頭搭載可能なミサイルを発射する技術は、当然ですが世界の諸国への拡散があってはならない技術なのです。


弾道ミサイル発射型オハイオ級原子力潜水艦
弾道ミサイルを発射出来る米オハイオ級原子力潜水艦

SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)概要図
潜水艦発射弾道ミサイルSLBM概念図

北朝鮮潜水艦001
北朝鮮の潜水艦とみられる(ソ連製旧タイプ?)

北朝鮮潜水艦ミサイルか
北朝鮮の潜水艦ミサイル実験か?

そうりゅう海上航行中
日本製 海上自衛隊が誇る静音型・潜水艦「そうりゅう」
自衛隊哨戒機や米艦艇との共同訓練を実施している。


The Beatles - Yellow Submarine


サブマリン707CuRGn

サブマリン707b


submarin707av_1

ネット上で探せるアニメの「サブマリン707」です!なつかしい・・・

 『サブマリン707』(サブマリンななまるなな; 連載期間1963年~1965年)は、漫画家の小沢さとるが『週刊少年サンデー』に1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)まで連載した海洋冒険漫画。太平洋で起こる怪事件に海上自衛隊の潜水艦が立ち向かう。プラモデルの発売との相乗効果で人気連載となり、後に続編が発表された。
 初めての本格的潜水艦漫画として、連載と併せて用語解説記事などが書かれ、可潜艦・セイル・シュノーケル・ホーミング魚雷・ソナー・フリゲートなど、潜水艦や対潜戦に関する知識や用語の(少年への)普及に大きく貢献した。(Wikipediaより)

 そうでした。このマンガ、プラモデル、子供の頃の思い出ですね。

 こくりゅう実習潜航001

 こくりゅう実習潜航002

 こくりゅう実習潜航003

 こくりゅう実習潜航004

 潜水艦 【こくりゅう 密着取材】 報道番組

 
  ANNニュース 海上自衛隊潜水艦取材

(おわり)
プロフィール

hatogairu kouen

Author:hatogairu kouen
大津波の甚大な被害は住民にも地域にも大きなPTSD(心的外傷後ストレス障害)。「夏を忘れた海」と生きる人々の心の復興を願う。三陸海岸K市育ち,杜の都在。

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