MH08  1970年大阪万博 天地真理デビュー前夜その2


 1970年(昭和45年)は、斎藤真理さんは、国立音楽大学付属高校声楽科を卒業され、早稲田大学のフォークソングクラブに準会員として参加し、かつヤマハミュージックスクールのボーカルコースに通っていました。そして、この年11月5日、三重県合歓(ねむ)の郷で開かれたヤマハ「'70作曲コンクール」に斎藤マリの名で出場し、June Chun作詩・作曲の「OTHERWISE」を歌われたのでした。(注;現在、OTHERWISE、真理さんの歌唱も曲自体も次のブログに紹介された動画が削除されているため、残念ながら不明です。誰か歌や演奏をお願いしたいところです。)

  メロンパンさん 天地真理ものがたり デビュー前の歌「OTHERWISE」

 1970年、日本は高度成長期の真っただ中、3月14日、大阪万国博覧会が「人類の歴史と進歩」をテーマに開催され、日本中が大賑わいでありました。(閉会9月13日,会期183日)
 
   昭和時代大阪万博S45-200
   (泣いて笑って夢に生きた昭和時代 昭和倶楽部編 成美堂出版,2013年9月)

 大阪万博といえば、まず思い出すのは、<芸術は爆発だ!>岡本太郎さんの「太陽の塔」と、国民的浪曲歌手・三波春夫さんの「世界の国からこんにちは」の明るい歌声ですね。

   

   日本万国博覧会 EXPO70' OSAKA JAPAN
  
 さて、ネット上、大阪万博と天地真理、渡辺プロダクションをキーワードに検索すると、だいだらぼっちさんブログ「海神日和」に、「万国博と石坂泰三[われらの時代]」という次のような記事が見つかりました。

 『城山三郎が石坂泰三のことを描いた『もう、きみには頼まない』を読んだ。(中略)経団連会長の石坂泰三が日本万国博覧会会長を引き受けたのは、70年大阪万博の開かれる5年前で、79歳のときだ。佐藤栄作政権の通産大臣、三木武夫にしつこく頼まれ、ついに断れなくなった。』(中略)

☆Wikipedia(「石坂泰三」)
 『石坂 泰三(いしざか たいぞう、1886年(明治19年)6月3日 - 1975年(昭和50年)3月6日)は、日本の財界人、経営者。第一生命保険、東京芝浦電気(現・東芝)社長を経て、第2代経済団体連合会(経団連)会長(在任、1956年(昭和31年)2月21日~1968年(昭和43年)5月24日)。経団連会長を4期、12年務めた。経団連会長の異名 「財界総理」は、石坂泰三の活躍による。(一部加筆)(中略)1965年(昭和40年)11月に三木武夫通産大臣の要請で、人選が難航していた日本万国博覧会協会会長を引き受け、1970年(昭和45年)3月の日本万国博開催に漕ぎ着けた。(以下略)』

 『万博でポピュラー・ミュージックのプロデュースを担当したのはワタナベ・プロの渡辺美佐だった。おもしろいエピソードがある。ワタナベ・プロの新春パーティに石坂が出たときの話だ。〈はじめてこの種のパーティに出た石坂は、ある女性歌手がつけている名札に目をとめ、不思議そうに訊(き)いた。

 「きみ、どうして胸にそんな文句を書いているんだ。」

今度は、女性歌手がきょとんとした。文句など書いてはいない。天地真理とは、その女性の芸名である。石坂はそれを「てんちのしんり」と読んでいたのだ〉』
 『会長になってから4年4カ月、万博は無事、開幕し、夏休みには50万人から60万人もの入場者があるというほどの盛況ぶりだった。(中略)万博の入場者は当初の予想を大きく上回って6000万人台(6,421万人)となり、死者の出るような事故もなく無事に終わった。大きな不祥事もなく、赤字になって当然と思われたのに、200億円(約165億円ともいわれる)もの黒字決算となった。』( )内、一部加筆。

  大阪万博空中写真

  ブログ海神日和 万国博と石坂泰三

 ナベプロの渡辺美佐氏に歌謡イベントの大きな責任を担当してもらっていたことを差し引いても、彼女の傍らにいて紹介されたデビュー前の無名女性歌手の名札を凝視したことは、英雄色を好むとは言わずとも、財界の総理「石坂 泰三」氏が一瞬に若き真理さんの可愛らしさや明るい性格の良さに惹かれたからであり、逸話として語り草としたのはその後の彼女の国民的人気と経済効果を良く知っていたからではないでしょうか。

 渡辺美佐氏は、おもにビジネス目的と思われますが、ザ・ピーナッツや安井かずみさんと(後年、真理さんとも)ヨーロッパ旅行をされる大物。万博では音楽イベントのプロデュースをまかされ、2億円の予算があったとも言われますが、全イベントには予算が足りず、企業スポンサーへの資金援助依頼など激務であったことが想像されます。しかし、よく取り仕切り各イベントを成功裏に導きました。

   アラッポ・カーロの備忘録 大阪万博と渡辺美佐さん

 また、渡辺美佐氏の発案で創設されたスクールメイツも大阪万博のオープニングで、その後定番となったテニスルックのミニスカートとポンポンでにぎわいに花を添えました。その他、全国ヤング歌謡フェスティバルなるイベント、若手歌手とグループサウンズ約30名に対してグランプリを与える人気投票で、ナベプロのザ・タイガースがスパイダーズに敗れるなど、ご愛嬌も語り継がれているようです。

☆Wikipedia(「スクールメイツ」)
 1962年、渡辺プロダクションの渡辺美佐(現・名誉会長)が欧米研修から帰国した時に「本格的なジャズ・ポップスの合唱団をつくり後継者を育てたい」と提案。その翌年1963年、東京音楽学院が発足した。その中から優秀な生徒を集めて1964年に結成されたのが「スクールメイツ」である。当初は地方からの入学希望者も多く、1960年代後半~1970年にかけて全国各地(名古屋市、大阪市、福岡市、広島市など)に系列地方校が誕生し、そこから今日の芸能界を支える多くのスターを輩出した(キャンディーズ、太田裕美ほか)。1970年には大阪万博のオープニングイベントにも参加。そこで渡辺美佐プロデュースにより「女子メンバーがテニスルックでポンポンを持って踊るスタイル」が確立した。(一部加筆)

 ところで、冒頭でも触れたメロンパンさんのブログ「天地真理ものがたり」に、2009年10月19日の記事として「真理ちゃんのアルバイト」があります。
 『天地真理さんがまだ無名のころ、彼女が高校を卒業した翌年、1970年に大阪で万博が開催されました。その万博のパビリオンのひとつ、「電気通信館」で、真理ちゃんが司会のアルバイトをしていたらしいです。高校を卒業して、将来の進路を模索していた真理ちゃんの、意外な経歴ですが、あの当時の万博には多くの世界的なミュージシャンや演奏家も、招かれていました。真理ちゃんが、単なるお小遣い稼ぎだけで、はるばる万博でアルバイトをしに来たとは思えません。なにかしら有名なアーティストと接点を持ちたいという思いがあったかも知れません。"悲しき天使" で有名なイギリスの歌手 メリー・ホプキンスさんも、万博に参加されています・・・』

   maribaito2

   電気通信館携帯電話かな

   天地真理ものがたり 「真理ちゃんのアルバイト」電気通信館

   Mary Hopkin/Those Were The Days-Live at Expo'70 OSAKA

 デビュー前年の斎藤真理さん、万博でのアルバイトは司会業。これはナベプロ副社長・渡辺美佐氏、あるいは万博協会・石坂泰三会長のご紹介なのかもしれません。後に、ヒット曲連発で渡辺晋氏やソニーの会長から寵愛を受ける国民的スーパーアイドル・白雪姫は、このように当時、日本の最高峰だった経済や文化の実力者の下で形成されたのでしょうか。いずれ高度成長期の元気な日本人群像が成したひとつの社会現象だったのかもしれません。


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