MS03 パリからの手紙 第3節 音楽教育 (フィクション)


3.横浜音楽大学(仮名)付属中学・高校の頃

 M子がピアノを習い始めた頃は小学校2年生で、横須賀港の見える住宅地の一角に住んでいた。ピアノは横浜音楽大学(仮名)に通う女子大生のO先生に習っていた。先生の家は京浜急行線の汐入駅の近くだった。M子は几帳面な子供で、いつもレッスン時間ちょうどに先生の家の玄関を開けて入った。
 先生の家のレッスン室にはグランドビアノがあって、テーブルの上にはいつもお菓子が置いてあった。また、道を挟んで鯛焼き屋があって、M子はレッスンが終わると「ア~終わった!」と言っては、お小遣いで鯛焼きを買って食べながら帰えった。M子は、通りすがりの誰もが振り返る、瞳が大きく、歩き方の可愛い女の子であったが、食がしっかりしていて、健康的な児童であった。

 M子の自宅には、ドイツのライセンスで国内の楽器製造会社が製作した上質のアップライトピアノがあって、いつでもしっかり練習してから先生のレッスンに通っていた。このピアノは母が、運よく仕事関係のお客さんを通して、ローン(当時は月賦といった)で購入したものだった。当時の親には、テレビも高価だったが、より高価な品は、思い切った買い物であった。しかし、仕事で子供に十分に寄り添えないため、清水の舞台から飛び降りるような強い気持ちで愛情を注ぎ込んで購入したのだった。「清水の舞台から飛び降りる」、これはM子のその後のけっして「小さくない人生」で、キーワードのように何度も現れてくるのだった。

  【演奏動画】中古ピアノ クロイツェル KE600 グランドギャラリー

  横須賀市
  横須賀港と東京湾

 M子のピアノは続けていくうちに段々と上手くなっていき、途中で投げ出した友達の女の子にずいぶん羨ましがられた。先生もM子が上達していくことを喜び、いつしか先生がM子の家へ遊びに来るようになった。先生はとても美人で、M子の母に恋愛の相談などしていた。
 M子は、横須賀市民会館でO先生門下生の発表会があったとき、小学校5年であったが、演奏順は最後で、トリを演じた。
 その日、M子は朝に美容院に行って髪をアップにしてもらい、洋服はレモン色のスカートスーツを着た。弾いた作品はブルグミューラ作曲「アラベスク」だった。M子の母が客席で心配そうに観ていたが、M子の演奏はあまり緊張もせず堂々としていた。
 M子は、先生の友人が教えるピアノ教室の発表会にも特別参加することがあったが、その時もトリで演奏した。彼女は、一瞬シーンと静まる会場で、最初、指を鍵盤に触れる瞬間と、曲に没入して弾き終える瞬間がたまらなく好きだった。

 その後、先生に彼女の通う横浜音楽大学の付属中学への入学を勧められ、先生ご自身が習っていた大先生KG氏のレッスンを受けるため横浜市内に通った。
 横浜での受験日当日はお正月が過ぎた1月中旬、とても寒く、教室にはたくさんの小学生と親がいた。部屋には円筒形の石油ストーブが1台だけあった。M子の母はその教室で愛する娘の受験が終わるまで、祈りながらじっと待っていた。M子のビアノの実技試験はたゆまない普段の練習のおかげで、首尾よく行った。
 M子は母親の影響で言葉使いがはっきりしていて、やさしく丁寧だったので、親子での面接は、高い評価点が得られた。ただ、音楽学校では本人の音楽の才能と親子の性格や経済事情が重要な評価項目だとは思いもよらない小学六年生は、午後に行われた国語や算数など学科試験の出来が振るわず、そのことだけを心配して、帰りの電車で、母の腕にしがみついて涙ぐんでいた。

 相模原湾の湘南も近い横須賀。二月なかば、もう石畳をゆっくり散歩したくなるような温かい春が来た。M子は合格発表を母と一緒に見に行った。
 M子は、到着するとすぐに合格者掲示板に自分の名前を見つけた。彼女は、見事に、横浜音楽大学の附属中学に入学する夢がかなったのだ。さくらが満開、大喜びの母は、わが子に新宿伊勢丹で買った桜色の洋服を着せ、顧客の経営する写真スタジオで記念写真をとった。

 音大付属中学のM子は、毎日、青いラインの入ったセーラー服を着て、海を見ながら電車で片道二時間の通学をした。横浜の海の見える公園は学校と隣接していて、入港する大型の外国船、特にギリシャ等のヨーロッパ行きかと想像させる白い客船を見るのが好きだった。彼女は、1964年(昭和39年)、東京オリンピックが開催された首都圏の明るい雰囲気に内心、うきうきしていた。
 彼女は付属中学の三年間は「ピアノ科」を専攻し、彼女の上達した演奏は卒業記念にレコードになった。このレコードのピアノ演奏は見事な出来だったが、それゆえ、後年、有名な国民的アイドルになった時、その外見的な美しさからか、この演奏が自ら一人で弾いていることを信じてくれる人は少なかった。一方で、彼女は手のひらが小さく、高音部を弾くためにいつもめいっぱい指を広げ無理をしていた。

 付属高校に進学した1968~1969年(昭和43~44年)、いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」が流行った。ご当地の横浜だけではなく、日本中に流行した。歌謡曲、歌、歌・・・彼女はおもいきって、清水の舞台から飛び降りるように「声楽科」に編入した。彼女は通常の話声は女の子らしい明るい声だったが、何故か歌うとアルトかメゾソプラノが楽に出せる音域だった。彼女は、シューベルト作曲の「魔王」や「鱒」の得意なフィッシャー・ディースカウ(Dietrich Fischer-Dieskau)にはなりたくなかったし、モーツアルト作曲のオペラ「魔笛」の「夜の女王」でもなかったので、クラシックの多くの声楽家が行うファルセット、ベルカントで高音を歌うことを学んでいった。



いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」1969、レコード大賞作曲賞


いしだあゆみ「美しい別れ」紅白歌合戦 1974年
M子も歌手として同じステージに。夢のような二十代。


~横浜港~恋人たちの港/天地真理 (1974年2月)


(つづく)

【お断り】「パリからの手紙~国民的アイドルだった歌手・M子の想い出」(フィクション)について
 ベートーベンをモデルにジャン・クリストフを書いたロマン・ロランにあやかり、天地真理さんの著書やCD付きの自叙伝などを原典に仮想・元国民的スーパーアイドルの回想を、全12節ほどの短編にしています。あくまで、主な個人名、固有名詞は仮想の名前としました。全編、強いて言えばパロディでありますが、悪しからず。(ハト)

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明るき癒しの歌声、天性のファルセットを紹介し、悩める日本人を応援します。

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