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MW44 藤圭子さんのインタビュー「流星ひとつ」を読んで

 
 前回記事にした藤圭子さんについて、28歳で引退を発表し渡米する前に沢木耕太郎氏が、独占ロングインタビューをして、すべて会話形式で表現した書籍「流星ひとつ」を、丸善に行き文庫で買って一気に読みました。このインタビューは、1979年秋、ホテルニューオータニ40階のバーで行われ、彼女の引退公演の12月26日まで何度か補足のインタビューを重ねてまとめ上げたものとのこと。当初から出版の承諾を彼女からもらっていた沢木さんは彼女の再デビューや芸能活動への復帰に支障があるのではと思い直し、お蔵入りさせていましたが、2013年8月22日に突然、藤圭子さんの自死のニュースが流れ、急遽同年10月に新潮社から出版したものということです。当時、話題になった書籍のためすでに読まれた方もあるのではないでしょうか。

 この本は主に北海道旭川と岩見沢で旅回りの浪曲師の両親のもとで三人兄弟の末っ子で過ごした、つらく厳しい子供時代と歌手デビュー前後のこと、歌手としての熱い思いがよくわかる内容となっています。
 ちょっと時間がかかるかもしれませんが、特に印象的だったことを順次、記してみたいと思います。

 藤圭子流星ひとつ文庫表紙
沢木耕太郎著「流星ひとつ」(平成28年新潮文庫)



恋の雪割草★藤 圭子

 北海道時代の友達と会った時に、もう北海道には住みたくない、帰りたくないという純子さんですが、長い冬の後の春を告げる情景が目に浮かぶようです。旭川では両親の旅回り中は子供たちだけで居残り、食事に困ることもあったそうです。厳冬に着るオーバーもなく、かわいそうに思った他人からオーバーをいただいたとも語っています。
 私は札幌と函館周辺ですが12年間住み、仕事柄、道内各地によく出張していました。北海道は雪景色はきれいかもしれないが、雪解けがよごれて埃っぽいのとおっしゃっていますが、まったくその通りと思います。



花は流れて★藤 圭子

 独特のひっかかりがあるかすれ声。さびではドスの利く声ですが、歌うことはやはり大好きで、自分の歌う放送や録画をよく見ていたそうです。歌い過ぎると声が出なくなることがあり、デビュー直後は特に無口となり、声を温存していた。デビューから5年ほどで、声が出なくなるアクシデントが続いた。このため、国立病院で思い切って、のどのポリープを切除する手術を受けた。その後、歌声はひっかかりのない澄んだ高音が出るようになり、レコーディング関係者や目の不自由な母親が最初に気づいたが、もう本来の自分の歌声ではない、いつ歌手を辞めようかと思い悩む日々を送っていた心境が話されています。



藤圭子♥この愛に生きて オリジナル:内山田洋とクールファイブ

 前川清さんと十九歳で結婚するも一年ほどで早々離婚。それでもその後も前川清とクルーファイブの歌はお気に入りで、コンサートに行っては感動していたとのことです。結婚はデビュー3年目で特にヒット曲が出なかったため、話題作りの側面もあったような表現が記されています。



藤圭子♥哀愁の街に霧が降る

 デビュー前は錦糸町界隈で両親と流しをやり一晩に50曲ほど歌っていたそうです。歌詞カードで歌うのがいやで、必死で歌を覚えた下積みがデビュー後生きました。夜の女や任侠のドスをきかせた歌は迫力がある彼女ですが、哀愁を帯びたブルースもお得意です。心がこもっているからです。



藤圭子♥東京流れもの


藤圭子 カスバの女 1970年10月23日 渋谷公会堂ライブ収録曲

 売れっ子になって、週刊誌、特に女性週刊誌に、頻繁にうその記事を書かれていて、いたく憤慨していたそうです。その記者はNHKにまで出入りする人だった。彼女の話を聞くと、うそが大嫌いというまっすぐな心意気、潔癖症が感じられます。彼女もデビュー時一歳年下にされてしまい、結婚を発表するまで是正に時間がかかったとのこと。彼女は小中学校時代は成績が優秀で、クラスで3番以内だった。家ではあまり勉強できず、学校の授業で理解して、テストは簡単だったといっています。中学校の修学旅行は函館でした。両親は生活保護を受給していてお金がなく行けそうもなかったけど、先生が工面してくれてみんなと行けたことがうれしかったと話しました。

 両親は彼女が中三の時、岩見沢の温泉施設に職を得ることができたので、親に付いて行き、親と共に歌を披露していた。冬の雪まつり歌謡大会に、東京からの歌手が欠席となったので、長靴姿で北島三郎の「函館の女」を歌い、見に来ていた東京の作曲家の八州秀章(やしまひであき)氏に勧誘され、中学校の卒業式に卒業証書をもらった日に、母親と汽車に乗って上京の旅に出たのでした。
 西日暮里のアパートに住み、八洲氏のはからいで歌と踊り、芝居のけいこを受けたが、八洲氏が専属となっているビクターのオーデションに二度も落とされた。経済的に苦しいので親と一緒に夜の東京で流しをやった。彼女が東京に出て来たのは昭和42年(1967年)、流しをしていたのは十六、十七の頃だった。
 その後、沢ノ井龍二氏(作詞家 石坂まさを)の内弟子となって、やっと受かったコロンビアを断ってRCAというレコード会社の若きデイレクター榎本襄(えのもとじょう)氏の下で、「新宿の女」でデビュー。18歳と2か月、昭和44年9月25日のことでした。


藤圭子♥女のメロディー 本来は明るい美女なんですね

 圭子さんは、1981年に帰国して歌手復帰。RCAレコードからCBSソニーに移籍しました。宇多田照實(うただてるざね)氏と結婚し、光ちゃんを出産。その後、日本とアメリカを何度も行き来しました。(Wikipedia)



藤圭子♥ふたりのビッグショー 1997年1月27日放送(藤圭子46歳)
この時は八代亜紀さんとギターの伴奏だけで流しを再現してくれました。

 この頃、愛娘・光ちゃんが、宇多田ヒカルとしてデビューし、一躍、大ヒット歌手に。以後、娘の活躍を見守る一方で、自らステージに立つことはなくなったといわれています。

【編集後記】
 CD・音楽音源の店として有名なTOWER RECORDSのウェブサイトに、藤圭子さんの追悼文があります。最後にこの文面から、
 「彼女は宇多田ヒカルの母親としても知られ、93年に当時夫だった音楽プロデューサーの宇多田照實と娘のヒカルと共に音楽ユニットのU3を結成してCDをリリース。2000年には宇多田ヒカルの札幌公演に飛び入り参加して“圭子の夢は夜ひらく”を歌った。謹んで故人のご冥福をお祈りいたします。」

 札幌での、ヒカルさんの公演に飛び入りした圭子さん。自らの代表曲を北海道庁のある街で歌いました。うれしかったでしょう、ご本人も、娘さんも、おそらく駆け付けた友人も、若いヒカルさんのファンも・・・


女のブルース(動画)★藤 圭子
昭和51年ビックショー(デビューから6年。高音がきれいかも)

 女のブルースは、2枚目のシングルで圭子さんのお気に入り。デビュー曲と圭子の夢は夜開くに、挟まれ、レコードの売り上げは良かったが、2か月しか歌っていない曲。各番で、同じ言葉が四回続くので、当時の圭子さん、ここは東京なら、私が四つの東京を皆さんに披露できると大変喜んだと話しています。最初から最後まで歌うことも聴くことも、歌好きの圭子さんでした。(新潮文庫、流星ひとつ,p163-166.)


藤圭子♥大阪しぐれ

 圭子さんの大阪しぐれ、いいですね~。一般的に歌謡曲歌手はどうしてもデビュー直後のヒット曲のイメージで売り込む戦略を取りますが、圭子さんは阿久悠作詞の「京都から博多まで」、もそうですが、北国の寒さを感じさせない西日本、大阪の歌を歌うと、自分の固定イメージから放たれて、明るい演歌に感じます。



宇多田ヒカル - 花束を君に

宇多田ヒカル『花束を君に』誕生にあった天国の母への思い

2013.09.05藤圭子を長年応援してくださった皆様へ
MESSAGE from Hikki
Hikaru Utada Official Website



藤圭子 さすらい(改)

 紅白のあでやかな歌唱とは別バージョン。大人の女性を表現。藤圭子さんは、まだ生きているような感じがしますね。

(おわり)

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hatogairu kouen

Author:hatogairu kouen
大津波の甚大な被害は住民にも地域にも大きなPTSD(心的外傷後ストレス障害)。「夏を忘れた海」と生きる人々の心の復興を願う三陸海岸K市育ち。杜の都在。

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